朝4:50起床。
5:30チェックアウトで再び富士スピードウェイを目指す。
中央道の諏訪インターまでの道中でコンビニに立ち寄って朝食を購入。
懐かしい光景だ。
旅行業界で働いていた頃、大先輩と一緒に長野県のツアープランを作成して価格の交渉や手数料の交渉で各施設に営業に行く際のルートを久々に走った。
上諏訪温泉から諏訪インターまで行って素直に中央道に乗るのか?
当時僕は毎度のように大先輩に向かってわざとその質問をする。
すると・・・
「え~っ!そりゃ~おぎのやに寄るに決まってるやん!」
「でた~!やっぱり寄るんですねぇ~!」
これがお決まりのルーティーン。
大先輩ご執心の美人営業ウーマンIさんに一目会う為に、用が無くても必ず寄るという。(笑)
若くて容姿端麗で話し方もキャビンアテンダントか超一流企業の社長秘書か?っていうくらいの美しい言葉遣い。
後にも先にもあんなパーフェクトな美女を見た事が無いっていうくらいの人でした。
当時の僕はどちらかというと・・・毎回大先輩に付き合わされておぎのやに寄った際、バスドライバーや添乗員専用の乗務員食堂が奥にあって、僕らもそこで『峠の釜めし』を御馳走になる訳なんですけど、当時その乗務員食堂で働いていた女の子が気になっていました。
僕はたまにしか行かなかったのですが、行くと奇跡か?って思うくらい毎回出会うんです。
そして何か視線を感じるなぁ~って振り向いたらそこに彼女がいて目が合い、お互い会釈する事が多かったもので。
長野らしい純朴そうな美女でしたが、当時結婚前提で付き合っていた人がいたので何も進展は無く、後に会社が新たに旅行社を立ち上げ、僕の担当するテリトリー自体が関西出発の日帰りバスツアーがメインになった為、南信(長野県南部)よりも東に出向く機会もなくなり、当然の事ながらそれ以来出会う事もなくなりました。
ふと思い出すと「皆さん今頃どうされているんだろうか?」ってちょっと気になったりはしますよね。(笑)
大先輩には2年ほど前に連絡をしました。
若狭での新規事業に興味は無いですか?って。
その世界ではそれなりに知られた人なので一緒に働いてくれるとなったら心強かったのですが、現在は早期退職して余生をゆっくり楽しみたい!って、趣味のソフトボールを楽しんでいるとか・・・
まあ強烈な社長の下で無茶振りの連発で酷使され続けたのだから、これからは是非ストレスフリーな日々を満喫してもらいたいものだと願いつつ、「気が変わって何かしたくなったら声を掛けて下さい!」って伝えました。
旅行会社って営業範囲が広くて、あちこちの観光地で色々な人たちと出会い、無理な条件で交渉したり、時には損して得を取れじゃないけど、あえて相手の条件を呑んで、その代わりに知恵を借りる事もあったり・・・
僕のいた会社は自社の利益の事しか考えてなかったのですが、僕や大先輩はそれが嫌でいつも自社と取引先とお客様の3者が、それぞれWINWINになれるような材料や条件を求めて、取引先の社長や担当者と密に情報交換していたので、引退した今でもつながりがあるのはそういった信頼関係を大切にしていたからでもあります。
それ故に「あの人は今どうしているかな?」とか気になる人がたくさんいるのも事実。
当時兄弟のように仲良くしていた取引先の担当営業マンが、ある日突然自殺した事件があって・・・つい数日前に2人でミナミへ飲みに行ったばかりなのに、なんでその時に悩みを相談してくれなかったんだろう?とか、残されたご家族は大丈夫なのだろうか?一体何があったのだろうか?等と、ものすごくショックを受ける出来事もありました。
今でもその土地に行ったり、その土地の情報をネットやテレビで見かけたりすると、そんな事をあれこれ思い出して物思いに耽る事もあります。
中央道から八ヶ岳が見えてきました。
清里高原~蓼科高原や野辺山高原もツアーで利用していたので、僕にとっては思い出深い場所です。
僕(というよりも当時僕のいた会社)の無茶振りにいつも応えて頑張ってくれる施設さんが多かった地区でもあるので尚更。
あとJR小海線の八千穂駅から蓼科高原まで続く麦草峠(メルヘン街道)は、かつて僕が車の運転技術を磨く為に走り込んでいた峠道の一つ。
ここを走り込んで集中力を研ぎ澄ました後に真夜中のビーナスラインや権兵衛峠(伊那)へ赴いていた。
特に権兵衛峠は片道一本走るだけでも神経が衰弱するくらい長くてタイトで悪路な峠道だったので、国道19号線まで走り抜けたら復路を走る気分になれず中津川か塩尻まで流して帰り、道中で車中泊ってパターンが多かった。
たまに集中力が高くて調子のいい日に真夜中の権兵衛峠を往復なんてした時には、伊那まで帰ってきた瞬間・・・車を飛び出して藪の中でマーライオン。
懐かしいなぁ~。
そしてあんな無茶苦茶な峠尽くしの放浪生活を1年近く続けていたのによく死ななかったなぁ~。ってつくづく思うのである。
当時の僕は自転車競技で頂点を目指す目標を諦めきれず、でも社会人として現実問題、十分なトレーニングをできる環境じゃなくなった中で、世知辛い社会人としての洗礼を受け、更に当時のサイクリングチームも喧嘩別れで解散した事で完全に心が崩壊していました。
自分にできる事は何なのか?って考えたり、自分が生まれてきた意味って何なのかを悩んだり、色々挫折や迷いがあって自分の死に場所を探すつもりで放浪の旅に出たのです。
ところが元々死ぬ気でいたから普通の神経ではできないような事を平気でやってのけるようになって・・・
お陰で妙に肝が据わってきて・・・あちこちで地元の走り屋に勝負を挑んでは、相手を道連れに潰すくらいの気持ちで走り回っていたのです。(そうは言ってもぶっちぎりで完璧な勝利を美学としていた僕は、結局誰とも事故らず・・・地元に帰るまでは幸い誰にも負ける事なく走り続けていました。)
そんな狂った僕にもう一度人である事を示してくれたのは、当時山梨や神奈川、長野、岐阜で知り合った仲間や彼女とその家族。
「うちの娘と結婚して養子にならんか?仕事ならいくらでもあるから、自分が本当にやりたい事を焦らずに探せばいい!」とか、「うちの会社に来いよ!車好きも多いし勝負に勝つ事ばかり考えないでメカの事とか楽しくみんなで語り合おうよ!」などとお声掛けしてもらえる事で、人の心の温かみに改めて感謝する機会をもらえたというか・・・
そしたら急に神戸が恋しくなって、祖母の事が心配になって・・・
春先に神戸に帰って来て六甲山を流していたら、ここで言うところの伝説の走り屋って人に偶然出会って必然的に勝負になり・・・
その頃の僕は「セミスリックタイヤなんて要らない、スポーツラジアルタイヤで十分だ!」って持論があって、セミスリックタイヤで躍起になってタイムアタックをしている走り屋を『そこまでしないとタイムを出せない無駄なタイヤ痕を残すクズ』ってバカにするくらい、自分の腕には絶対の自信があって有頂天でした。
吸排気系をチューニングしただけの『ほぼノーマル』のインプレッサSTiバージョン5でしたが、何度かテスト走行で峠に来ていたチューニングショップのデモカーを打ち破った経験もあったので、完全に調子に乗っていたんだと思います。
西六甲の下りで出会った伝説の走り屋・・・むしろ最初はそれが誰かなんて判らなかったんです。
乗っていた車は恐らくノーマルのジェミニかファミリア。
そもそも眼中にもない車だったのですが、サスペンションも度ノーマルで恐ろしいくらいロールしているのに、まるでレールの上でも走っているのか?っていうくらいの猛スピードで次々とカーブを曲がって行くのです。
キツネにつままれた様な気分でしたが、格下の車種に舐められたんじゃ自分の車に申し訳ない!って感じたのですぐに追いました。
ところがついて行くのがやっと!
サスペンションのロール具合は一般人なら極度の荷重移動に横転を恐れる恐怖しかないってくらいの傾き方をしているのに、それでもジェットコースターのように走る姿を見て、きっとドライバーは相当頭のねじがぶっ飛んだ人に違いないって、初めて他人の走りに震えを感じました。
人というものは自分よりも狂った人間を見たら意外と冷静な感覚に戻れるものです。
それと同時に車両がノーマルなうえに非力であっても、タイヤのグリップ次第では限界以上の走りができるんだという事をまざまざと見せつけられました。(下り限定ではあるけれど)
とうとう僕は森林植物園までついて行く事ができなかった。
後半タイヤが熱ダレを起こしてペースをキープできなくなってしまったのである。(実はそれまで横浜のDNAーGPというタイヤを使っていたのをダンロップのFM901に交換したばかりだったが、これがまた限界が近くて使えないタイヤだった。)
その後再戦を願って毎晩のように西六甲を流していたら、今度は東大阪から時々走りに来ているというR33のGT-Rと出くわす。
またしても西六甲の下りで勝負する事になりましたが、今度はチューニングの本気度に負けました。
それまで峠においてのスカイラインGT-Rは、インプレッサにしてみたら葱を背負ったカモだと認識していたのですが、チューニング次第ではここまで走れるのか?って思い知らされる。(この件以来ダンロップのタイヤは使わなくなってしまった。)
西六甲は距離もあるので確かにタイヤの勝負にはなるのですが、地元に帰って来てからまさかの2連敗にショックを受けたタイミングで、祖母から「あんたもいい加減車で走り回ってばかりいないで、観念して集中できる仕事を探しなさい!人に負ける事が誰よりも嫌いなんとちゃうの?」って言われて、最初は「だから今地元の六甲で最速になる為にチューニングプランを真剣に考えてやなぁ・・・。」って思ったものの、「いやいや、言っているうちに俺の貯金も底をつくし、そろそろ真剣に仕事で出世せんと、例え何か一つでも子供の頃からの夢は叶えんと、ホンマに何の為に生まれてきたんか判らん話になる!ばあちゃんの世話もせんといかんし・・・。」ようやく自分の今後を真剣に考えられるようになり・・・
それで辿り着いた天職が旅行業だったという流れ。
無駄のようで自分にとっては必要だった1年間の放浪生活のほとんどが、この今走っている界隈を起点とするものだったという青春の思い出。
今でも岐阜、長野、山梨の峠に来ると故郷に帰ってきたような気持ちにさせられます。
こちらは南アルプス側です!
中央より右側の山頂が雲に隠れているのが甲斐駒ヶ岳。
中央より左側の山々は鳳凰三山の峰々です。
ほとんどの山が稜線で連なっている南アルプスも時間が許されるなら大縦走してみたいものですが、日数と時間が掛かるのでしばらくは無理かなぁ~。
この日は富士山の山頂もクッキリと見える快晴でした。
それ故にまたしても山に登りたい気持ちが込み上げてくる。
こんな天気だったら『不帰ノ嶮』も問題なく歩けていただろうし、誰にも止められなかっただろう。
東京五輪の応援が無かったらきっと懲りずにもう一本登っていただろうと思う。
山への未練たらたら。
この日の朝はミワさんの運転だったので口出しはしませんでしたが、本来なら一宮御坂ICで降りて河口湖まで下道の方が早いし高速料金も節約できるところを、「走り慣れないから・・・」という理由で大月JCT経由のルートで行きました。
この大月JCT~河口湖の区間も僕にとっては思い出深い路線です。
少し前の記事で書きましたが、山梨中のブドウ農園を駆けずり回ったあの前日、大阪の本社から車で諏訪まで来たところで後輩宛てに部長から怒りの呼び出し電話がかかり本社へUターン。
そこから仕切り直しで山中湖へ向かったものの、もうすぐ河口湖ICに着くって所でガス欠になって立ち往生。
夜の0時に差し掛かろうかって時に、真っ暗な高速道路の脇で運転していた後輩を責める訳でも無く、月夜に浮かぶ富士山のシルエットと星空を見上げながら野郎2人でJAFが来るまで「俺たち一体何をやってるんやろ~?」って黄昏れていたという思い出。(笑)
変なエピソードの多い所はずっと記憶に残るものである。
この日は須走の駐車場からシャトルバスに乗り換えて移動!
また富士スピードウェイに戻って参りました。(8:11)
僕は富士スピードウェイに着いて尚、山への未練が抜けないままコロナ&セキュリティチェックを受けて会場内に入るのでした。
スタート地点がどこからなのかこの時点では不明でしたが、やはりどうせならゴールラインの前に陣取って楽しもう!って事でこの位置に座る。
パドックには出場選手の自転車の他、報道スタッフのバイクなどもびっしりスタンバイされていました。
それにしても試合開始までまだまだ時間があるので、この待ち時間が辛かった・・・眠い!
とりあえず場所は確保したので・・・眠気覚ましに散策だ!
東京五輪のオフィシャルグッズを買う為にまたしても1時間、行列に並んでお土産などを購入し・・・
前回は無かった(見つけられなかっただけ?)フードコーナーも見つけたので、ホルモンうどんと牛串を購入!
こっちは前回も利用したフードコーナーだが、こちらは焼きそばとジャンボフランクくらいしか売ってなかった。
さてお昼ご飯も準備したところでレース開始をおとなしく待つのでした。
では次回へ続く。