2020年1月19日日曜日

2019年11月の思い出残り・・・HAT神戸は暴風 × 傷心ポタリング × ルミナリエはもう要らない


11月は風と落ち葉に悩まされた月でした。


掃いても掃いても・・・


風が吹いたら落ち葉が集まってくる場所なんです。


塾や音楽教室の先生方も掃除をしてくれるともっと掃除が早く終わるのですが・・・


11月30日(土)走行会

ほぼポタリングな感じ・・・(笑)

中之島の運河入口で”えらそうなサギ”が獲物を狙っていました。


確かに肉眼でも判るくらい小魚の大群が泳いでいます。

これならたっぷりと貯えができそうですね!


下町ポタリング・・・

長田区の鉄工所街など・・・パンクに気を付けて走ります。


大日ヶ丘方面のバス道を途中から外れて自動車の一方通行箇所を逆走。

勿論自転車は逆走可能の道ですよ。

実は初めて走る道路だったのですが、まるでモンテカルロラリーか?っていうくらいのスピードで、絶え間なく車が走って来るので想像以上に怖い道路でした。

場所によっては崖にべったり張り付くように待機しないと、車に引っかけられてしまいそうなくらい狭かったです。

ここは地元スペシャルの抜け道なので、走る車は抜け道で時間を短縮するのが目的の場合が大半ですから、まあラリーみたいな状況になるのも致し方ないのですが・・・

自転車で走るのは勇気がいると感じました。(笑)

一部まあまあの上り区間もあるので・・・


その道を抜けると丸山の中心地に入ります。


丁度丸山駅から鈴蘭台方面へ神戸電鉄が出発したところです。

ろくな思い出のない場所ですが、3歳になる直前まで暮らしていた街なので、時々無性に来たくなってしまいます。

当時の僕の家は丸山駅の改札を出た真正面にあったのですが、現在は更地になっています。


その横にこんな細い下り坂があります。

この先通り抜けのできない道なのですが、2歳の頃ここを足を離したまま3輪車で下って行き、その先の階段を転げ落ちて行った事がある、そんな思い出深い坂道です。

この狭い道をコントロールしていった事もそうですが、最後階段を三輪車ごと吹っ飛んで転げ落ちたのに奇跡的に無傷だったのと・・・そのあと三輪車を担いでここまで登ってきた事を思うと、当時からクレイジーな子供だったんだなぁ~としみじみ感じてしまう。

母親は育児放棄していたので、僕はいつも朝から夜まで独りぼっち。

毎日空腹に耐えながら生きていました。

親たちの出入りする姿をずっと観察していたのでリビングの椅子を玄関まで運び、その上に乗って玄関を開ける方法を思いついて、よく勝手に外を徘徊していました。
近くの滝谷西公園で近所の小学生たちにドッジボールをぶつけられたり、殴る蹴るのリンチに遭っている所を隣に住んでいたおばちゃんに助けられて以来、僕の徘徊癖を気にかけてくれる人が増えて・・・

近くの居酒屋の大将にも何度か助けて頂いて・・・夜にじいちゃんが迎えに来てくれる・・・そんな毎日でした。

だから母親の記憶はそれっきり。

ずっと死んだと教えられて育ってきました。

ある意味ここでの濃い3年間が、僕を強い反骨精神と、誰にも縛られない自由な性格に育ててしまったのじゃないかと思う事があります。


それもあって、時々ここの景色が懐かしく思えるんです。

色々と記憶を辿って行った時に、「あの時は本当にあれで良かったのだろうか?」って反省をしたり懺悔をする事もあるのですが・・・

実は8年ほど前に実の母親が生きているって事を知ったんです。

兵庫県内のある都市の市役所から僕宛てに電話があって、生活保護を受けて生活していた母親を引き取って欲しいって。

2歳の頃の僕は知っていました。

母親の育児放棄の理由も、なぜ帰りが遅いのかも。

ある時必死で追いかけたんです。

自分を置いて出ていく母親がどこへ行こうとしているのか。

母親が家を出て鍵をかけた後に僕は椅子を運んで鍵を開け・・・

その後必死で走って追いかけました。

でも隣には父親とは違う男の人がいて、2人が肩と腰に手を回して歩いて行くのが見えました。

当時はそれがどういうことなのか、はっきりとは解っていませんでしたが、でも直感でそれがとてつもなく嫌な気分だったことは記憶に刻まれています。

それが脳裏に焼き付いているので、その市役所には「分別のある大人が、一度自分の信じる道へ進むために家族を捨てて出て行ったんでしょ?だったら最後まで責任を全うして自分の力で生きて下さい。」と書いた手紙を託してこの件は終わったのですが・・・

気にならないと言ったら嘘にはなりますよね。

人は色々と背負って生きる生き物なので・・・

大切なことはこれからをどう生きるか、自分の納得のいく生き方ができるのか?だと解ってはいるのですが、時々過去を振り返って今の自分を見つめ直す時間も必要かな?って、時々こうやって自分の記憶を辿っています。


この日の仕事帰りに居留地の銀行に寄ったのですが・・・

ルミナリエの準備もできていました。

しかしこれこそ心に何も焼き付かないし、続ける意味あるのか?ってレベルの話です。

神戸の観光客が減少している根本的な理由が他にあるんだって事を、もっと真剣に考えた方が良いんじゃないか?と毎回思ってしまう。

何が震災の犠牲者への鎮魂だよ。

ただの観光イベントの一つじゃないか?

当時を知っている人はみんなルミナリエなんて期待していないし、早く無くなっちまえ!って思っている事をいい加減神戸市に解ってもらいたい。

大義名分と本音のギャップが大き過ぎて苛立ちしか湧いてこない。

僕の知っている昭和~平成初期の神戸は、もっと人がイキイキとしていて、何もかにも希望に満ち溢れていたよ。

0 件のコメント:

コメントを投稿