2016年2月25日木曜日

マルコ・パンターニへの想い

前回書いた文章はパンターニを追い詰め、死に至らしめたと思われる環境(連中)への怒りの気持ちと、今後同じような過ちが起きない事を望んだ本国へのメッセージです。

なので今回の記事は全く別物だとご理解下さい。


2月15日に元町映画館へマルコ・パンターニの映画を観に行ったのですが、終始涙が込み上げて堪えるのに必死でした。

見終わった後もしばらくの間、誰とも話をしたくないし、そっとしといてもらいたい・・・そんな複雑な気持ちにさせられた。

最初は自転車ロードレース界最強最速のヒルクライマーであった、パンターニのすごさを多くの人に知ってもらえる・・・

つまりロードレースの醍醐味や、ロマンを多くの方々に知って頂けるきっかけになるんじゃないかと期待していたのであります。

ところが先に十三の映画館へ観に行って来られたK南様曰く、「確かにパンターニのすごさは良く伝わりました。しかし最後は結局・・・実はパンターニもドーピングをしていたんじゃないのか?って思わされるような内容でした。ファンが観たらきっとショックを受けるかも知れませんね。」との事でしたので、ある程度の覚悟を決めて観に行くことになりました。



僕がロードレースに興味を持ったのは7~8歳くらいの時で、その頃はベルナール・イノーやローラン・フィニヨンといったフランス人チャンピオンがツール・ド・フランスで活躍していた時代で・・・

もちろんその当時の日本では、ニュースで少し話題にあがる程度の超マイナースポーツで、ツール・ド・フランスなんていうものは、自転車版の我慢比べ大会みたいな位置づけで認識されていたんです。

でも幼少の頃そんなツール・ド・フランスにロマンを感じていた僕は、いつしかF1レーサーになる夢を持つようになっていました。

しかしレーシングチームに入る伝手も無ければ、普通自動車の免許を取りに行くお金も時間も無い生活で、大学進学にも未練があった僕は、ホテルマンの仕事をしながら生活費と大学への進学資金を貯金するので精一杯だったんです。

センター試験当日にインフルエンザにかかり、2日後には阪神大震災・・・

ついてなかったと言えばそれまでなんですが、入試は失敗し・・・僕のF1への夢もどんどん遠退いていく。

そんなどっちつかずな自分の進退に苛立ちはあったけど、だからといって自分の周りには真剣に相談して答えを返してくれるような大人はいなかった。

MTBでヨーロッパ縦断なんて計画も考えていましたが、前哨戦で行った4日間での四国一周・・・

10kg以上あるパニアバッグを積載したまま、856kmを28時間程で完走した時に、一緒にヨーロッパ縦断をやろうと言っていた仲間は、「こんなペースで毎日走られたんじゃついて行けない!」と怒って計画は白紙化。

逆に僕は、もしも荷物が無かったらアベレージ40km以上も苦じゃないかも・・・って思い始める。

そこから海外のロードレースを研究し始めました。

95年のジロとツールを観て、トニー・ロミンゲルやミゲールインデュラインの強さを知る。

ファビオ・カサルテッリの死をVTRで見て、命懸けのスポーツだと自覚する。

F1と何ら変わらないじゃないか・・・って思えると、本気で打ち込んでみる価値があるような気がしてきて・・・

当時ゲビス・バランチームのエフゲニー・ベルツィン(ベルズィンと表記される事が多い)が好きで・・・

好きだった理由は若くて新人にも関わらず、94年のジロ・デ・イタリアにおいては、インデュラインの3年連続ダブルツールの夢を打ち破ってチャンピオンになり、ウーゴ・デ・ローザに「彼はエディ・メルクスの再来だ!」と言わしめたほど・・・

レース経験の浅さからは荒削りな一面も垣間見えたけど、個人タイムトライアルの強さは尋常じゃなくて、しかもそのハングリー精神の塊のようなロシア人は、フィギュアスケート選手のように容姿端麗とあって、とにかく血気盛んな若僧の僕から見たら、かっこ良くて仕方なかったのであります。

それだけに当時はベルツィンのライバルになる選手はみんな嫌いだったんですね。(笑)

パンターニも例外じゃなく、当時はクラウディオ・キアプッチの弟分ってイメージだったので、「山だからって出しゃばるんじゃない!アシストのくせに!」とか思っていましたよ。(苦笑)

でも当時のロードレースはエースの絶対王政スタンスから、それこそベルツィンの師匠にあたるモレノ・アルジェンティーンの唱える「チャンスある者に勝利を!有望な若手にもチャンスを!」ってスタンスに移行する風潮が出始めた頃だったので・・・

エースだろうがチームオーダーだろうが、お構い無しに本能で走るパンターニは、まさに自らが動いてチャンスをものにする新しい風だったんです。

逆に一度でもインデュラインを倒した事で慢心し、チヤホヤされて牙を抜かれたロシアの金狼が、徐々にチームメイトとの確執で思うような成績を残せなくなって・・・

どんどん低迷していく様を見せ付けられ、本当に素晴らしい走りができて、スポーツマンシップのある選手は誰なんだろう?

僕は誰を手本に走ればいいんだろう?

そう思えるようになっていました。

それでもまだ若き日のベルツィンの無鉄砲とも言える果敢なアタックに、強い勇気と覚悟を感じましたし、インデュラインやロミンゲルのここ一番の圧倒的な強さに、完成されたライディングと頑強な精神を見ました。

またリシャール・ビランクの山岳職人的な個人的な戦略と技術の高さ、チームメートの活躍の場を作る綿密な計算高さにも尊敬できるものを感じました。

そしてマリオ・チッポリーニの圧倒的なカリスマ性と、やはり圧倒的なスプリント力。

魅力的な選手が非常に多かった時代。

そこでのパンターニは、さしずめ奇跡を呼び起こす小さな巨人といったところじゃなかったでしょうか?

山岳スペシャリストが山賊じゃなくて海賊?って最初は違和感もありましたが・・・

でも何となく海賊って呼び名が似合う選手でした。

誰にも縛られない、自由を求める走りが彼にはありました。

VTRで観ている人にまで次元の違う走りだと感じさせる、あの山岳でのロケットのような加速。

当時の選手の層は今と比べても比較にならないほど役者が揃っていました。

その中にいて尚、怪物と呼ばれるエース級の選手たち。

それらをまるで子供と大人のように、一瞬でぶっちぎって走り去るパンターニの勇姿。

ただ速いだけじゃない、リスクを恐れない鋼の意志と勇気があった。

99年のジロで2連覇を目前に、突然の出走停止処分。

ファンとしては事態が飲み込めず、訳の判らない突然の出来事に絶叫し、怒りのぶつけ所に困って泣き崩れたあの日。

その後もずっとパンターニの潔白を信じて、ヒーローの復活を待ち続け・・・

あの憎たらしいランスなんて、山でケチョンケチョンにしてしまえ!って僕だけじゃない、多くのパンターニファンがそれを待ち望んでいた。

「なんで死んだんだよ!なぜ死ななきゃならなかったんだよ!」

ずっと涙が止まらなかった。

丁度ヨーロッパへ行くのを諦めて、祖母の面倒を見る為に就職を選んだ僕は、しばらくチーム練習にも参加できなくて・・・

その間にキャプテン代行がチームをまとめといてくれなかったもので、ある日その責任を巡って何人かのメンバーと衝突し、僕はそれ以来ほとんど自転車に乗らなくなった。

そしてパンターニの死で、ロードレースを観るのも嫌になった。

今こうして自転車に対する愛情を思い出して、職業として頑張る事ができるのも、自転車の今後を大切にしたいという思いがあるからです。

多くの人に自転車というスポーツ、自転車レースの楽しさ、素晴らしい選手たちの走り・・・

いろいろと知ってもらえるように、発信する役割を僕もやらなきゃって思っています。

パンターニがドーピングをしたかどうか?

真相は闇の中で今となっては死人に口無しです。

しかしそれを差し引いても彼の走りは神がかっていて、伝説と呼ぶに相応しいものだったと思います。

世の中にはアンチもいるかも知れませんが、それはそれ・・・

僕は素晴らしい走りをした選手の生き様を、同じようにリスペクトしてくれる方々が一人でも多ければそれだけで十分幸せです。

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