僕は昭和50年4月に海星病院で生まれました。
当時の自宅は長田区長田天神町で、玄関を出たら目の前が神鉄丸山駅の改札でした。
母親が育児放棄気味で、父親とじいちゃんが出勤していなくなったら、昼までには母親も外出します。
公務員だったじいちゃんが帰ってくるのは早くても17時半。
それまで僕はお昼ご飯も食べないまま自宅に監禁されている状態でした。
空腹で苦しい時間を毎日耐えていたので、2歳になる前からの記憶が断片的ではありますが残っています。
この写真を撮影した時は父親と父親の大学時代からの友人に加え、じいちゃんとばあちゃんがいた時のものです。
これは3歳になったかどうかくらいの頃、奈良ドリームランドかな?
それか白浜のアドベンチャーワールドかな?
撮影してくれているのがばあちゃんで、ポニーに乗る僕を支えてくれているのが大叔母。
この直後くらいに長田区から北区の花山へ引っ越します。
母親は失踪して帰って来なくなったので、ここでじいちゃんと父親と3人で暮らす事になります。
それでばあちゃんが毎日兵庫から花山まで通ってくれて、母親代わりに育ててくれていました。
これは4歳になる直前、3年保育で幼稚園に入園しました。
この中で僕と同じ3年保育で入園したのは友達の島くんだけ。
あとはみんな1歳年上の子と同じクラスで学ぶことになる。
兵庫区の御旅公園にて。
ここから徒歩3分のところに義祖父とばあちゃんの住むマンションがある。
僕はこの頃から3年間、毎日北区の花山東町から一人で神鉄に乗って新開地まで電車通い。
だからって訳じゃないけれど、幼稚園はともかく・・・最近の小学生や中学生が学校や習い事に行くために、わざわざ親に送迎されている姿を見ると「過保護だなぁ~。それじゃいつまで経っても独り立ちできないよ?」って思えてしまう。
当時の僕は、毎日電車や駅で慌ただしく通勤する大人や、新開地周辺でなわばりを張っているホームレス、子供が一人で通園している事にいちいち首を突っ込んでくるお節介な大人など、様々な人々の動きや考え方、周りへの気遣いができる人とできない人・・・
そんな風景を冷静に眺めながら通園しつつ、「自分は本当にこの世に生まれてきて良かったのだろうか?」、「将来誰かの為に、世の中の為に役に立てる大人になれるのだろうか?」などと、自分の将来に想いを馳せていた幼稚園児でした。
御旅公園には生田神社の分社があり、桜の名所だったりします。
よく幼稚園の友達とここでかくれんぼをしたり鬼ごっこをしたり・・・まあまあ罰当たりな子供だったと思います。
ばあちゃんにはとにかく、よくあちこちへ連れ回されました。
これは幼稚園に入園して間もない頃に箱根~富士五湖を旅した時の写真。
箱根湯本から登山鉄道に乗って、強羅からケーブルカーとロープウェイを乗り継いで芦ノ湖へ。
芦ノ湖からはバスだったのかな?
きっとバスに酔ったはずなので、そこの嫌な記憶はほとんど残っていない。
電車では酔わないけど、バスやタクシーはすぐに乗り物酔いするので苦手だった。
でこれは山中湖。
芦ノ湖といい、遊覧船は乗り物酔いしないので普通に楽しんだと思う。
これは土曜日だったのかな?幼稚園を昼に終え、その足で京都まで連れて来られた時の写真。
幼稚園手帳には毎日通園シールを貼ってもらえる。
コンプリートすれば1か月皆勤のキラキラシールを貼ってもらえるのが子供心に密かな楽しみでした。
それだけに旅行やばあちゃんの買い物や用事に付き合わされ、皆勤キラキラシールを貼ってもらえないのが嫌で、時々それを迷惑に感じていたり。(笑)
そうはいっても旅行や買い物に付き合わされた分はたっぷり遊ばせてもらった。
特に須磨水族館~須磨海岸散歩~須磨浦山上遊園のパターンと、阪急六甲~六甲ケーブル~ロープウェイ~カンツリーハウス(六甲フィールドアスレチック)で遊ぶ~ロープウェイ~有馬温泉散策(鼓滝公園~マス池~有馬ヘルスセンター)のパターンが、僕にとって一番楽しいルーティンだった。
この頃ガンダムのプラモデルで60分の1サイズのドムを、片足だけ父親と組み立てた後、ほとんど説明書も読まずに残りを一人で完成させ大人たちを驚かせて以来、幼稚園の帰りには兵庫区にあるサンケイモデルという模型屋さんでばあちゃんにガンプラを買ってもらって帰る事が平日のルーティンとなった。
その分日曜日は身体を動かして、六甲フィールドアスレチックの遊具を全て自分の力で成功させてコンプリートする事を目標に通っていた。
そんな僕のやる気を支える為にばあちゃんをメインに義祖父やじいちゃんが週替わりで僕に付き合ってくれた。
時々父親がその役を買ってくれたが・・・父親はスパルタ過ぎて、できれば彼とは出かけたくなかった。(笑)
父親と六甲山に登る時は六甲登山口駅(現・神鉄六甲駅)から沢を歩き、崖を登り、裏六甲ドライブウェイをカンカン照りの太陽の下、水分補給も根性で我慢しろと言われて歩き続けてからのカンツリーハウス。
ところどころで「ついて来なかったら置いていくぞ~!」って本気でダッシュ!
毎回殺されそうに思うくらい全力で父親の遊び相手に付き合わされている。
幼稚園児の頃から・・・いつもまあそんな感じでした。
御旅市場の豆腐屋さんの次男は1歳年上で当時の同級生。
時々ケンカもしたけど当時一番の仲良しで・・・
彼のお母さんには随分と可愛がって頂いていたので、こんな感じにうちのばあちゃんの引率で彼も一緒に六甲山に登って遊ぶ事なども。
日頃の鍛錬のお陰で運動会とかでは年上にも負けないくらいパワフルだったけど、よく女の子と間違えられるくらい華奢で小柄だったので、それが当時のコンプレックスでした。
そんな僕のコンプレックスの事など気にも留めず、ばあちゃんは時々面白半分で女の子用の服を買ってきては、僕にそれを着せて楽しんでいました。
これがその写真ですが僕の嫌そうな表情が判りますでしょうか?(笑)
「綺麗な色の髪をしたお嬢ちゃんですね!」って道行く人に声を掛けてもらう事がばあちゃんの楽しみだったみたいで・・・
「この服は嫌だ!着たくない!」
「せっかく買ったんだから着なさい!」
ほぼ強制でした。(苦笑)
また僕の事を他人から自分の子供だと思われる事にもうれしく思っていたようで、「これからは私の事をおばあちゃんではなくお母さんと呼びなさい!」と言われるようになって益々ばあちゃんの事を面倒くさい人だなぁ~と感じるようになっていました。
ばあちゃんの事は嫌いではなかったけれど、確実に好きではなかった当時。
僕は男に生まれたので誰よりも強くなりたいし、将来は世界を救うヒーローになるんだ!と、格闘技をしている2歳上の先輩に勝負を挑んでは、何度も何度も叩きのめされながらあきらめずに立ち向かって鍛えてもらいました。
ケンカのテクニックとかもその先輩に叩き込まれました。
家では父親の持っているブルース・リーのビデオを勝手に観てはジークンドーを独学で練習したり・・・。
あと演劇はいつも主役を任される事が多かったです。
これはセリフを覚えるのが早いだけではなく、場面によってキャラクターがどんな気持ちでしゃべっているのかも含めて台本全てのセリフを覚えて友達にアドバイスしているのを先生に見られてからそうなってしまいました。
でもその事を快く思わない一部の保護者などがいて、僕と友達との付き合いにまで亀裂が入るほどの嫌がらせを受ける事がたびたびあり、そういう時にいつも助けてくれたのが園長先生とばあちゃん、あと仲の良かった友達とそのお母さんなどでした。
こうやって演技をしている時も小声で次のセリフをしゃべる友達にセリフのタイミングを間違えないように確認をしています。
こんなカンペがアルバムに保管されていましたが、正直カンペを見ながらしゃべった覚えがありません。
ちゃんと自分の言葉で話したかったので半分くらいはアドリブで挨拶をしていたと記憶しています。
そういうところもばあちゃんにとっては鼻が高かったそうで、今思えば僕のせいで彼女の虚栄心を刺激してしまったのかも知れません。
「あなたは良い大学を卒業して、一流企業で出世するのよ!」
当時、世界を救うヒーローを夢見ていた少年に、そんな現実的な目標を持たせるな!(笑)
でもばあちゃんのすごいところは、いつも全力だった事。
僕に新しい何かを経験させよう!学ばせよう!って姿勢が尋常ではなかった。
当時の日本や世界は、意味の分からない我慢大会や大食い大会で盛り上がったかと思いきや、歴史的な発見とか冒険とか人類初の快挙とか・・・そんなニュースが頻繁に飛び交っていたような。
だからなのかは判らないけど、チャレンジ精神を持つ事に生き甲斐みたいなものを感じていた僕は、ある意味ばあちゃんの期待を背負う操り人形みたいな存在ではあったと思う。
南紀もよく遊びに連れて行ってもらいました。
アドベンチャーワールドだけではなく、串本海中公園や白浜温泉、勝浦温泉。
一度行っただけで、天王寺駅の乗り換えで特急くろしおが発着するホームを覚えていたりして、僕が迷わずそこまで案内するとばあちゃんが嬉しそうにするんですよ。
彼女の期待に応えようと幼稚園児なりに努力しました。
百貨店の入口など扉のあるところは先に扉でスタンバイ。
ばあちゃんが歩いてくるタイミングに合わせて扉係をする。
他にお年寄りや妊婦さんなどがいたら、勿論扉を開いて「お先にどうぞ!」ってやっていました。
この時に他人からお礼を言われたり感謝される事がとても気持ちよくて、誰かの為に頑張りたい!とか、誰かの喜ぶ顔を見るのが幸せ!って感じるようになったんだと思います。
これって当時、一日一善のCMの影響によるものも大きかったかな。
海外に出張に行くことが多い義祖父から「男はレディーファーストが常識、わしはこうしてばあちゃんからお酒を注いでもらったりしているけど、海外では男の人が女の人に注いであげるのが常識やから、日本の常識が必ずしも海外では通じないって事を大作も知っておくんやぞ。」と教わった事もばあちゃんの期待に沿えるように頑張ろうと考えるようになったきっかけ。
それで5歳になった頃にはばあちゃんの買い物に付き合う時も、新開地で待ち合わせではなく、難波や梅田で待ち合わせするようになった。
ばあちゃんは新開地まで歩くより、国鉄の兵庫駅の方が目と鼻の先だったので、少しでも先に行って買い物を楽しんでいて欲しいという僕の気遣いからだった。
梅田は阪急梅田駅のホーム内にある喫茶店で〇〇時とか、阪急百貨店の地下街に〇〇時頃に探しに行くとか、難波は御堂筋線の改札前かロケット広場で〇〇時に合流とか。
それに間に合うダイヤとかはばあちゃんが調べて教えてはくれるけど、あまりにも余裕を見過ぎたスケジュールで朝早くから動かないと無理なので・・・
さすがに自分のペースで行きたいっていうワガママも内心あったので、今思い返すと結構本音と建て前を使い分けていたなぁ~と、子供時代の自分に感心してしまう。
それに当時はまだまだ携帯電話のない時代なので遅刻したら心配させてしまうし、行くのが面倒で一度すっぽかした時など、電話がかかって来て烈火の如く怒鳴られた覚えもある。
ただし悪い事ばかりではなく、それに行けば帰りにキディランドで新作のガンプラを買ってもらえるかも知れない!
そんな期待もモチベーションにして、花山から一人で大阪の待ち合わせ場所まで行っていました。
当時の自分の手形と比べてみました。
これはばあちゃんと大叔母と3人で市ケ原へ川遊びに行った時の写真。
4歳の頃白良浜で溺れて以来、小学6年生になるまで水恐怖症でかなづちでしたが、沢で岩から岩に飛び移りながら歩くのは、アスレチック仕込みで得意技でした。
浮石などでバランスを崩しても絶対に転ばないで迷わず次の岩へジャンプ!
この頃のスキルが今になって岩ゴツゴツの岩稜帯登山で役に立っています。
これは6歳の時に初めて札幌雪まつりに行った時の写真。
この時は芽室の親戚宅と小樽にも遊びに行きました。
無事に3年間電車通いを続けて卒園出来ました。
この御旅公園で知り合った20~30歳くらいの女性だと思いますが、2度ほど監禁されたのですが、1度目はトイレに行っているうちに逃げ出し、2度目は外から鍵をかけられ逃げられなくされたので、ベランダから排水パイプを伝って脱出したり・・・
新開地の改札でじいちゃんの帰りを待っていたら、ワンカップ大関の飲み残しなど、ゴミをそのままにして立ち去ろうとしたホームレス3人組がいたので「ゴミを持ち帰ってゴミ箱に捨てろ!」って注意をしたところ、生意気だと3人がかりで殴る蹴るの暴行を受けて・・・走馬灯を見たくらいなので死を覚悟したと思うんです。そこに偶然通りかかった父親に助けられた事があったり・・・
そんな破天荒な幼稚園生活だった事を、ばあちゃんはどこまで知っていたんだろう?
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