2024年12月17日火曜日

2024年一番の大事件。

2024年 6月23日(日)仏滅

祖母  東 榮子  永眠。


小さい頃から僕のばあちゃんを知っていてご近所付き合いをしてくれていた幼馴染も見舞いに来てくれたのだが、モニターを見ての通り酸素濃度が下がってよろしくない状況。


まさにこの撮影の1時間半後にばあちゃんは天に召される事となる。


心拍数が計測できなくなって「ピー!」と鳴るあれ・・・


何度聞いてもやりきれない。


転倒による骨折からの2度のコロナ感染。晩年は踏んだり蹴ったりの1年半だった。


デイサービスを使っていたらそのリスクはあって然りだとはいえ、あれがなければもう少し元気でいてくれたのかも知れない。


病院で95歳の誕生日を迎えていたばあちゃんは、肺炎が進行して肺水腫の状態だったのに、「ピー!」ってなってからも何度も復活。


僕に何か言いたげだった。


一度は心拍数が70まで復活した時は奇跡が起こった!って期待までしてしまった。


でもその頑張りがばあちゃんの最後の抵抗であり、僕が傍にいる事に「気付いているよ!来てくれてありがとう!」って言わんとしているような感じがして切なかった。


あのばあちゃんの最期の涙は、先逝く事への無念の涙なのか?それとも僕が最期を看取ってくれた事への感謝の涙だったのか?


今でもどっちだったのか気になって眠れない日がある。


この記事もなかなか書く勇気が湧かなくてずっとモヤモヤした気分だった。


彼女に対する感謝の想いとか思い出を何かしら書き記さないと、僕は僕で次の段階にスッキリと進めないと思っていたので、こうしてようやく書くに踏み切った次第である。


ばあちゃんは昭和4年に北海道の小樽に4姉妹の次女として生まれる。


弟もいたそうだが3歳の頃に交通事故で亡くなったそうだ。


昭和20年7月15日・・・当時16歳のばあちゃんも北海道空襲でB29の銃撃がかすめて危うく命を落とすところだったらしい。 


その3年後に結ばれるじいちゃんはその数か月前、レイテ沖海戦で魚雷に沈められた駆逐艦から海へ飛び込み、10km以上の距離を泳いでフィリピンの無人島に辿り着き、そこで1年近くサバイバル生活を強いられていたそうだ。

じいちゃんは終戦後回収に来てくれた駆逐艦雪風で日本へ帰国したそうで、同じ船にはゲゲゲの鬼太郎の作者で知られる水木しげるさんも乗っていたとか。


ばあちゃんの家系は恐らく北前船の貿易商。

だからひいじいちゃんの菩提寺は福井県の永平寺。

実際、小樽には曹洞宗の寺院が点在している。

北海道はアイヌなどの先住民以外に屯田兵や、古くは蝦夷貿易をしていた北前船の商人などが多く移民して開拓された土地なので、意外にも福井県とは関係性が深い。


先に亡くなった大叔母たちの話によると、うちのばあちゃんが一番の自由人にして破天荒な性格だったとか。

孫ながら「そうやんなぁ~。わかるわぁ~。その頃からそんな性格やったんか~?」と思う事が多かった。

勉強がつまらないから!って小学校を抜け出し、嫌がる3女を引っ張って鉄道にタダ乗りしては札幌の闇市まで繰り出すような不良少女。(笑)

大叔母の「私まで道連れにして、後でこっぴどく怒られて・・・本当に滅茶苦茶な姉だったわ~。」って話には、同情しつつも笑ってしまった。


左がばあちゃんで、右が被害者の会第一号の大叔母さん(3女)


なんだかんだ若くして神戸に移住してきた祖母だが、最後まで地元愛は変わらなかった。


本当に北海道と長野県が大好きな人でした。


この写真は僕が大学生くらいの時かな?

義祖父と二人で大町温泉郷と葛(くず)温泉に行った際に高瀬ダムで撮影したものと思われる。

ばあちゃんの好みには偏りがあって、山が好きだから山が雄大で川の水が綺麗な景色を愛していた。


だから松本や岐阜県の飛騨高山なんかも大好きで、「そんなに行って飽きないのか?」って聞いてしまうほどよく通っていた。

何よりも上高地を心から愛していた。

「私が死んだら上高地へ行って梓川に散骨してね!」って懇願するほど。

現実問題、国定公園だから散骨したくてもできねぇよ!って文句を言ってやりたいところですが、そんなばあちゃんの為に遺影だけはと思い・・・


河童橋と奥穂高岳をバックに撮影した写真を遺影にして頂きました。


あとはばあちゃんの誕生石をあしらったこのペンダントシャトルに遺骨を詰めています。

今後これを身に着けて奥穂高や槍ヶ岳を登る事がばあちゃんへの供養だと考えています。

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