2024年12月18日水曜日

ばあちゃんとの思い出① ~幼少編~

僕は昭和50年4月に海星病院で生まれました。


当時の自宅は長田区長田天神町で、玄関を出たら目の前が神鉄丸山駅の改札でした。


母親が育児放棄気味で、父親とじいちゃんが出勤していなくなったら、昼までには母親も外出します。

公務員だったじいちゃんが帰ってくるのは早くても17時半。

それまで僕はお昼ご飯も食べないまま自宅に監禁されている状態でした。

空腹で苦しい時間を毎日耐えていたので、2歳になる前からの記憶が断片的ではありますが残っています。



この写真を撮影した時は父親と父親の大学時代からの友人に加え、じいちゃんとばあちゃんがいた時のものです。



これは3歳になったかどうかくらいの頃、奈良ドリームランドかな?

それか白浜のアドベンチャーワールドかな?

撮影してくれているのがばあちゃんで、ポニーに乗る僕を支えてくれているのが大叔母。

この直後くらいに長田区から北区の花山へ引っ越します。



母親は失踪して帰って来なくなったので、ここでじいちゃんと父親と3人で暮らす事になります。

それでばあちゃんが毎日兵庫から花山まで通ってくれて、母親代わりに育ててくれていました。



これは4歳になる直前、3年保育で幼稚園に入園しました。



この中で僕と同じ3年保育で入園したのは友達の島くんだけ。


あとはみんな1歳年上の子と同じクラスで学ぶことになる。



兵庫区の御旅公園にて。


ここから徒歩3分のところに義祖父とばあちゃんの住むマンションがある。


僕はこの頃から3年間、毎日北区の花山東町から一人で神鉄に乗って新開地まで電車通い。


だからって訳じゃないけれど、幼稚園はともかく・・・最近の小学生や中学生が学校や習い事に行くために、わざわざ親に送迎されている姿を見ると「過保護だなぁ~。それじゃいつまで経っても独り立ちできないよ?」って思えてしまう。


当時の僕は、毎日電車や駅で慌ただしく通勤する大人や、新開地周辺でなわばりを張っているホームレス、子供が一人で通園している事にいちいち首を突っ込んでくるお節介な大人など、様々な人々の動きや考え方、周りへの気遣いができる人とできない人・・・

そんな風景を冷静に眺めながら通園しつつ、「自分は本当にこの世に生まれてきて良かったのだろうか?」、「将来誰かの為に、世の中の為に役に立てる大人になれるのだろうか?」などと、自分の将来に想いを馳せていた幼稚園児でした。



御旅公園には生田神社の分社があり、桜の名所だったりします。

よく幼稚園の友達とここでかくれんぼをしたり鬼ごっこをしたり・・・まあまあ罰当たりな子供だったと思います。


ばあちゃんにはとにかく、よくあちこちへ連れ回されました。

これは幼稚園に入園して間もない頃に箱根~富士五湖を旅した時の写真。

箱根湯本から登山鉄道に乗って、強羅からケーブルカーとロープウェイを乗り継いで芦ノ湖へ。



芦ノ湖からはバスだったのかな?

きっとバスに酔ったはずなので、そこの嫌な記憶はほとんど残っていない。

電車では酔わないけど、バスやタクシーはすぐに乗り物酔いするので苦手だった。



でこれは山中湖。

芦ノ湖といい、遊覧船は乗り物酔いしないので普通に楽しんだと思う。


これは土曜日だったのかな?幼稚園を昼に終え、その足で京都まで連れて来られた時の写真。

幼稚園手帳には毎日通園シールを貼ってもらえる。
コンプリートすれば1か月皆勤のキラキラシールを貼ってもらえるのが子供心に密かな楽しみでした。

それだけに旅行やばあちゃんの買い物や用事に付き合わされ、皆勤キラキラシールを貼ってもらえないのが嫌で、時々それを迷惑に感じていたり。(笑)


そうはいっても旅行や買い物に付き合わされた分はたっぷり遊ばせてもらった。

特に須磨水族館~須磨海岸散歩~須磨浦山上遊園のパターンと、阪急六甲~六甲ケーブル~ロープウェイ~カンツリーハウス(六甲フィールドアスレチック)で遊ぶ~ロープウェイ~有馬温泉散策(鼓滝公園~マス池~有馬ヘルスセンター)のパターンが、僕にとって一番楽しいルーティンだった。

この頃ガンダムのプラモデルで60分の1サイズのドムを、片足だけ父親と組み立てた後、ほとんど説明書も読まずに残りを一人で完成させ大人たちを驚かせて以来、幼稚園の帰りには兵庫区にあるサンケイモデルという模型屋さんでばあちゃんにガンプラを買ってもらって帰る事が平日のルーティンとなった。

その分日曜日は身体を動かして、六甲フィールドアスレチックの遊具を全て自分の力で成功させてコンプリートする事を目標に通っていた。

そんな僕のやる気を支える為にばあちゃんをメインに義祖父やじいちゃんが週替わりで僕に付き合ってくれた。
時々父親がその役を買ってくれたが・・・父親はスパルタ過ぎて、できれば彼とは出かけたくなかった。(笑)
父親と六甲山に登る時は六甲登山口駅(現・神鉄六甲駅)から沢を歩き、崖を登り、裏六甲ドライブウェイをカンカン照りの太陽の下、水分補給も根性で我慢しろと言われて歩き続けてからのカンツリーハウス。
ところどころで「ついて来なかったら置いていくぞ~!」って本気でダッシュ!
毎回殺されそうに思うくらい全力で父親の遊び相手に付き合わされている。

幼稚園児の頃から・・・いつもまあそんな感じでした。


御旅市場の豆腐屋さんの次男は1歳年上で当時の同級生。

時々ケンカもしたけど当時一番の仲良しで・・・


彼のお母さんには随分と可愛がって頂いていたので、こんな感じにうちのばあちゃんの引率で彼も一緒に六甲山に登って遊ぶ事なども。


日頃の鍛錬のお陰で運動会とかでは年上にも負けないくらいパワフルだったけど、よく女の子と間違えられるくらい華奢で小柄だったので、それが当時のコンプレックスでした。



そんな僕のコンプレックスの事など気にも留めず、ばあちゃんは時々面白半分で女の子用の服を買ってきては、僕にそれを着せて楽しんでいました。



これがその写真ですが僕の嫌そうな表情が判りますでしょうか?(笑)

「綺麗な色の髪をしたお嬢ちゃんですね!」って道行く人に声を掛けてもらう事がばあちゃんの楽しみだったみたいで・・・

「この服は嫌だ!着たくない!」

「せっかく買ったんだから着なさい!」

ほぼ強制でした。(苦笑)

また僕の事を他人から自分の子供だと思われる事にもうれしく思っていたようで、「これからは私の事をおばあちゃんではなくお母さんと呼びなさい!」と言われるようになって益々ばあちゃんの事を面倒くさい人だなぁ~と感じるようになっていました。

ばあちゃんの事は嫌いではなかったけれど、確実に好きではなかった当時。



僕は男に生まれたので誰よりも強くなりたいし、将来は世界を救うヒーローになるんだ!と、格闘技をしている2歳上の先輩に勝負を挑んでは、何度も何度も叩きのめされながらあきらめずに立ち向かって鍛えてもらいました。

ケンカのテクニックとかもその先輩に叩き込まれました。

家では父親の持っているブルース・リーのビデオを勝手に観てはジークンドーを独学で練習したり・・・。



あと演劇はいつも主役を任される事が多かったです。

これはセリフを覚えるのが早いだけではなく、場面によってキャラクターがどんな気持ちでしゃべっているのかも含めて台本全てのセリフを覚えて友達にアドバイスしているのを先生に見られてからそうなってしまいました。



でもその事を快く思わない一部の保護者などがいて、僕と友達との付き合いにまで亀裂が入るほどの嫌がらせを受ける事がたびたびあり、そういう時にいつも助けてくれたのが園長先生とばあちゃん、あと仲の良かった友達とそのお母さんなどでした。



こうやって演技をしている時も小声で次のセリフをしゃべる友達にセリフのタイミングを間違えないように確認をしています。



こんなカンペがアルバムに保管されていましたが、正直カンペを見ながらしゃべった覚えがありません。

ちゃんと自分の言葉で話したかったので半分くらいはアドリブで挨拶をしていたと記憶しています。

そういうところもばあちゃんにとっては鼻が高かったそうで、今思えば僕のせいで彼女の虚栄心を刺激してしまったのかも知れません。
「あなたは良い大学を卒業して、一流企業で出世するのよ!」
当時、世界を救うヒーローを夢見ていた少年に、そんな現実的な目標を持たせるな!(笑)


でもばあちゃんのすごいところは、いつも全力だった事。
僕に新しい何かを経験させよう!学ばせよう!って姿勢が尋常ではなかった。

当時の日本や世界は、意味の分からない我慢大会や大食い大会で盛り上がったかと思いきや、歴史的な発見とか冒険とか人類初の快挙とか・・・そんなニュースが頻繁に飛び交っていたような。

だからなのかは判らないけど、チャレンジ精神を持つ事に生き甲斐みたいなものを感じていた僕は、ある意味ばあちゃんの期待を背負う操り人形みたいな存在ではあったと思う。


南紀もよく遊びに連れて行ってもらいました。

アドベンチャーワールドだけではなく、串本海中公園や白浜温泉、勝浦温泉。

一度行っただけで、天王寺駅の乗り換えで特急くろしおが発着するホームを覚えていたりして、僕が迷わずそこまで案内するとばあちゃんが嬉しそうにするんですよ。

彼女の期待に応えようと幼稚園児なりに努力しました。

百貨店の入口など扉のあるところは先に扉でスタンバイ。

ばあちゃんが歩いてくるタイミングに合わせて扉係をする。

他にお年寄りや妊婦さんなどがいたら、勿論扉を開いて「お先にどうぞ!」ってやっていました。
この時に他人からお礼を言われたり感謝される事がとても気持ちよくて、誰かの為に頑張りたい!とか、誰かの喜ぶ顔を見るのが幸せ!って感じるようになったんだと思います。

これって当時、一日一善のCMの影響によるものも大きかったかな。
海外に出張に行くことが多い義祖父から「男はレディーファーストが常識、わしはこうしてばあちゃんからお酒を注いでもらったりしているけど、海外では男の人が女の人に注いであげるのが常識やから、日本の常識が必ずしも海外では通じないって事を大作も知っておくんやぞ。」と教わった事もばあちゃんの期待に沿えるように頑張ろうと考えるようになったきっかけ。

それで5歳になった頃にはばあちゃんの買い物に付き合う時も、新開地で待ち合わせではなく、難波や梅田で待ち合わせするようになった。

ばあちゃんは新開地まで歩くより、国鉄の兵庫駅の方が目と鼻の先だったので、少しでも先に行って買い物を楽しんでいて欲しいという僕の気遣いからだった。

梅田は阪急梅田駅のホーム内にある喫茶店で〇〇時とか、阪急百貨店の地下街に〇〇時頃に探しに行くとか、難波は御堂筋線の改札前かロケット広場で〇〇時に合流とか。

それに間に合うダイヤとかはばあちゃんが調べて教えてはくれるけど、あまりにも余裕を見過ぎたスケジュールで朝早くから動かないと無理なので・・・
さすがに自分のペースで行きたいっていうワガママも内心あったので、今思い返すと結構本音と建て前を使い分けていたなぁ~と、子供時代の自分に感心してしまう。

それに当時はまだまだ携帯電話のない時代なので遅刻したら心配させてしまうし、行くのが面倒で一度すっぽかした時など、電話がかかって来て烈火の如く怒鳴られた覚えもある。

ただし悪い事ばかりではなく、それに行けば帰りにキディランドで新作のガンプラを買ってもらえるかも知れない!

そんな期待もモチベーションにして、花山から一人で大阪の待ち合わせ場所まで行っていました。


当時の自分の手形と比べてみました。


これはばあちゃんと大叔母と3人で市ケ原へ川遊びに行った時の写真。

4歳の頃白良浜で溺れて以来、小学6年生になるまで水恐怖症でかなづちでしたが、沢で岩から岩に飛び移りながら歩くのは、アスレチック仕込みで得意技でした。

浮石などでバランスを崩しても絶対に転ばないで迷わず次の岩へジャンプ!

この頃のスキルが今になって岩ゴツゴツの岩稜帯登山で役に立っています。


これは6歳の時に初めて札幌雪まつりに行った時の写真。


この時は芽室の親戚宅と小樽にも遊びに行きました。


無事に3年間電車通いを続けて卒園出来ました。

この御旅公園で知り合った20~30歳くらいの女性だと思いますが、2度ほど監禁されたのですが、1度目はトイレに行っているうちに逃げ出し、2度目は外から鍵をかけられ逃げられなくされたので、ベランダから排水パイプを伝って脱出したり・・・

新開地の改札でじいちゃんの帰りを待っていたら、ワンカップ大関の飲み残しなど、ゴミをそのままにして立ち去ろうとしたホームレス3人組がいたので「ゴミを持ち帰ってゴミ箱に捨てろ!」って注意をしたところ、生意気だと3人がかりで殴る蹴るの暴行を受けて・・・走馬灯を見たくらいなので死を覚悟したと思うんです。そこに偶然通りかかった父親に助けられた事があったり・・・

そんな破天荒な幼稚園生活だった事を、ばあちゃんはどこまで知っていたんだろう?

2024年12月17日火曜日

2024年一番の大事件。

2024年 6月23日(日)仏滅

祖母  東 榮子  永眠。


小さい頃から僕のばあちゃんを知っていてご近所付き合いをしてくれていた幼馴染も見舞いに来てくれたのだが、モニターを見ての通り酸素濃度が下がってよろしくない状況。


まさにこの撮影の1時間半後にばあちゃんは天に召される事となる。


心拍数が計測できなくなって「ピー!」と鳴るあれ・・・


何度聞いてもやりきれない。


転倒による骨折からの2度のコロナ感染。晩年は踏んだり蹴ったりの1年半だった。


デイサービスを使っていたらそのリスクはあって然りだとはいえ、あれがなければもう少し元気でいてくれたのかも知れない。


病院で95歳の誕生日を迎えていたばあちゃんは、肺炎が進行して肺水腫の状態だったのに、「ピー!」ってなってからも何度も復活。


僕に何か言いたげだった。


一度は心拍数が70まで復活した時は奇跡が起こった!って期待までしてしまった。


でもその頑張りがばあちゃんの最後の抵抗であり、僕が傍にいる事に「気付いているよ!来てくれてありがとう!」って言わんとしているような感じがして切なかった。


あのばあちゃんの最期の涙は、先逝く事への無念の涙なのか?それとも僕が最期を看取ってくれた事への感謝の涙だったのか?


今でもどっちだったのか気になって眠れない日がある。


この記事もなかなか書く勇気が湧かなくてずっとモヤモヤした気分だった。


彼女に対する感謝の想いとか思い出を何かしら書き記さないと、僕は僕で次の段階にスッキリと進めないと思っていたので、こうしてようやく書くに踏み切った次第である。


ばあちゃんは昭和4年に北海道の小樽に4姉妹の次女として生まれる。


弟もいたそうだが3歳の頃に交通事故で亡くなったそうだ。


昭和20年7月15日・・・当時16歳のばあちゃんも北海道空襲でB29の銃撃がかすめて危うく命を落とすところだったらしい。 


その3年後に結ばれるじいちゃんはその数か月前、レイテ沖海戦で魚雷に沈められた駆逐艦から海へ飛び込み、10km以上の距離を泳いでフィリピンの無人島に辿り着き、そこで1年近くサバイバル生活を強いられていたそうだ。

じいちゃんは終戦後回収に来てくれた駆逐艦雪風で日本へ帰国したそうで、同じ船にはゲゲゲの鬼太郎の作者で知られる水木しげるさんも乗っていたとか。


ばあちゃんの家系は恐らく北前船の貿易商。

だからひいじいちゃんの菩提寺は福井県の永平寺。

実際、小樽には曹洞宗の寺院が点在している。

北海道はアイヌなどの先住民以外に屯田兵や、古くは蝦夷貿易をしていた北前船の商人などが多く移民して開拓された土地なので、意外にも福井県とは関係性が深い。


先に亡くなった大叔母たちの話によると、うちのばあちゃんが一番の自由人にして破天荒な性格だったとか。

孫ながら「そうやんなぁ~。わかるわぁ~。その頃からそんな性格やったんか~?」と思う事が多かった。

勉強がつまらないから!って小学校を抜け出し、嫌がる3女を引っ張って鉄道にタダ乗りしては札幌の闇市まで繰り出すような不良少女。(笑)

大叔母の「私まで道連れにして、後でこっぴどく怒られて・・・本当に滅茶苦茶な姉だったわ~。」って話には、同情しつつも笑ってしまった。


左がばあちゃんで、右が被害者の会第一号の大叔母さん(3女)


なんだかんだ若くして神戸に移住してきた祖母だが、最後まで地元愛は変わらなかった。


本当に北海道と長野県が大好きな人でした。


この写真は僕が大学生くらいの時かな?

義祖父と二人で大町温泉郷と葛(くず)温泉に行った際に高瀬ダムで撮影したものと思われる。

ばあちゃんの好みには偏りがあって、山が好きだから山が雄大で川の水が綺麗な景色を愛していた。


だから松本や岐阜県の飛騨高山なんかも大好きで、「そんなに行って飽きないのか?」って聞いてしまうほどよく通っていた。

何よりも上高地を心から愛していた。

「私が死んだら上高地へ行って梓川に散骨してね!」って懇願するほど。

現実問題、国定公園だから散骨したくてもできねぇよ!って文句を言ってやりたいところですが、そんなばあちゃんの為に遺影だけはと思い・・・


河童橋と奥穂高岳をバックに撮影した写真を遺影にして頂きました。


あとはばあちゃんの誕生石をあしらったこのペンダントシャトルに遺骨を詰めています。

今後これを身に着けて奥穂高や槍ヶ岳を登る事がばあちゃんへの供養だと考えています。

2024年12月11日水曜日

12月14日(土)15時~ テレビに出演します。

 



毎日放送で放送されている『明石家電視台』の新企画として『人生の選択』というコーナーを設ける事になったとかで、僕の『過去6回クマと遭遇した経験』を題材として採用させて下さい!とのお話を9月頃に頂きまして・・・。


自転車とは直接関わりは無いのですが・・・


初めて僕が生でクマと遭遇したのは1996~1998年の8~9月頃だったと記憶しています。

逆瀬川から六甲山頂を目指してロードバイクでチームトレーニングをしていた時。

西宮カントリー倶楽部の1番ホールのフェアウェイを悠々と歩いているクマがいるのを横目で見て、思わず3度見くらいしました。

ゴルフ客のおじさん方は怖がって全員カートにしがみつくように乗り、クマの動向を確認していました。

僕はチームの仲間と4~5人で走っていたのですが、三田から猪名川町を抜けて、北摂の山々を走った後、川西から戻って来て最後に東六甲から一軒茶屋まで上り、西六甲ドライブウェイ~有馬街道経由で兵庫区の自宅まで帰るコースを走行中でした。

当時は神戸近郊でクマに出会うなんて事は想像すらできていなかったので、目を疑いました。

実際に一緒に見た仲間たちとも「あれホンマにクマなん?何かの見間違いやんな?」「でもそうやとしたら、あれは何と説明する?ゴルファーのおっさん達はマジで怯えている感じやで?」「確かに・・・。」「俺ら夢でも見てんのかなぁ~」「いや、それは無いやろうけど冷静に考えよう?今俺らとは、金網一枚隔てた向こうにあんなでかいクマがいるんやで?あいつはどこから場内に入ったと思う?」「可能性としたらこの先の川が怪しい!」「そうなると自転車で走り去る俺らにもしも奴の狩猟本能が刺激された場合、早く逃げないとこの距離は十分な射程距離やぞ!」「できるだけ視界に入らないように急げ!」

そう言い合って必死で逃げた記憶。

甲寿橋交差点から苦楽園方面に逃げよう!って意見もあったけど、それだとクマとの距離が稼げないし、万が一住宅街まで追って来られたら住民の方々に迷惑が掛かって申し訳ない!

こういう時は敢えて激坂を上って逃げた方が、クマもバテて諦めるに違いない!

それで予定通り東六甲を必死で上った。

ちゃんと区間タイムを計測していなかったけど、甲寿橋から一軒茶屋までのタイムは余裕で30分を切っていたと思う。

盤滝トンネルと東六甲の分岐点まで時速40kmで必死に駆け上り、何度も後ろを振り向いて、モンスターに追われている絶体絶命の気持ちで逃げたのだから。


家に帰って同じマンションに住んでいた祖母にその話を報告しに行ったら、「え~っ、そんな~!宝塚にクマが出たなんて聞いた事もないよ~。」と言われたが、ちょうどそのタイミングでテレビのニュースでその話題が報道されて、「ほら!これよ!これ!」ってなった。


次は2000年8月末。

乗鞍のヒルクライムに出場する為に長野県松本市の乗鞍高原に来ていた。

前夜の土曜日だったが、宿泊していた美鈴荘から湯けむり館まで、外湯巡りしよう!って、後輩(塾の元教え子)と二人でメインの車道ではなく、街灯もない真っ暗けの林道を月明りを頼りに歩いて向かっている時に出会ったのが2度目。

何か暗闇の向こうから気配を感じるなぁ~とは思いつつ歩いていたら、「う~っ!」って重低音の唸り声。

思わず後輩と「この唸り声って犬だとしたら相当でかい番犬やと思うねんけど・・・どこに犬小屋がある?そもそも民家の灯かりすらないねんけど?お前見えるか?」「僕より先生の方が夜間視力強いでしょ?」「そうやねんけど見当たらんのよ。それよりこの獣臭ヤバくないか?」

そう言いながら林道を迷わず歩いていたら、ただでさえ暗闇だったのに、ひと際暗くなって月明りすら感じなくなった。

本能的にヤバいと思ったので後輩の腕をつかんで「ストップ!そのまま前を向いたまま!口を開くな!鼻で静かに呼吸しろ!」と引き留める。

ゆっくり目の前の風景を見上げてみた。空には星が光っていて、森の木々のシルエットはハッキリ見えている。

なぜそれなのに暗く感じたのか?

それ以前に鼻を突くような獣臭が至近距離だと言っている。

さっきよりも怯えたような声だが低く唸り声が目の前からしてきた。

木々のシルエットからゆっくり視線を下げてみた。

明らかに耳の形といい、後ろ足で立ち上がっているそのシルエットはクマだった。

恐らくあと一歩踏み込んでいたら、我々は一撃のもとに頭を攻撃されて致命傷を受けていただろう。

「おい、既に目が合っているからそのまま目を逸らさず、慌てないようにゆっくり後ずさりするぞ。俺から離れるなよ。」って、後輩の腕を引っ張りながら後退。

動物は人間がビビったり焦ったりしていたらすぐにそれを感知する。

クマに対しては「寛いでいるところを邪魔して悪かったな!」って、むしろ謙虚な気持ちで冷静に呼吸を整えながら後退することで恐怖感は緩和できました。

幸いクマも風下から迷う事無く接近してきた我々に戸惑っていたみたいでジッとしたまま動かなかった。ざっと50m以上は距離を取れただろうか?

ちょうど右後ろに建物があってその向こうをメインの車道が走っているのが確認できた。

この距離ならクマに追いつかれるよりも先に車道へ逃げ切る事ができる!

そう確信したところで「おい、全力で走るから遅れるなよ!」そう言って車道まで猛ダッシュ!


宿に帰ってみんなに話をしたけど誰も立ち上がって190~200センチもあるようなツキノワグマなんている訳ないやろ!って信じてくれなかった。

一瞬ヒグマか?って思うくらいでかかったのにだ!

後輩さえも暗くてハッキリ大きさが判らなかったし、本当にクマがいたのか?そんな経験自体が初めてだからまだ信じられないという心境だと。

ただ唸り声から推測してかなり大きい何かがいた事と、獣臭かったことは間違いないと・・・

いやいや、九死に一生を得ておきながらそんなものなのかよ?(笑)


一般的にクマの大きさは体長で表す事が多い。

体長150センチはかなり大きい方のツキノワグマだが、体長=身長と解釈している人の多い事。


体長とは四つん這いになった時の鼻先からお尻までの長さである。

二本足で立ち上がった時は概ねその体長に後ろ足の長さをプラスしないとならないって事を誰も解っていないのだ。


ツキノワグマの中には時々体長160センチを超える怪物がいる。


あの時僕が見上げて確認したシルエットはかなりの大きさだった。


それ以降しばらくはそんな経験から離れていましたが、2016年以降本格的に北アルプスを中心に登山活動をするようになって、またクマと遭遇する機会が増えてしまった。


乗鞍の時はセオリー通りの逃げ方を実践して成功したけど、登山で出会うようになってからはセオリー通りの事は一切していない。


専門家に言わせたら僕の行為はクレイジーだと言われるかも知れない。

まずクマ鈴は持っていても使わない!鳴らさない!

できるだけ夜間もヘッドランプを多用しない。

ラジオすら鳴らさない。

もしも風下にクマがいたら10km離れていても人の臭いを嗅ぎ分けてしまう。

ヘッドランプで位置もバレバレ!

人を襲い慣れている個体だったらどうする?

だから僕は使わない。


いざという時はやられる前にやるくらいの気持ちではある。

その覚悟で単独登山をしている。

そんな僕がどうやって何度もクマと遭遇して、これまで無事でいられたのか?

それがクイズの問題になっているんじゃないかな?

2022年9月末。

スタッフの美里と一緒に奥穂高岳に登ったその帰り、岳沢カールから上高地までの林道でもクマに遭遇したのだが、疲れ切っていた美里は僕のとっさの行動にビックリしてパニックになり、クマに驚くどころではなく、逃げ去るクマにすら気付いていなかった。


その話を編集で変なオチをつけられている可能性もあるけれど、楽しみにしていたので是非皆さんにも観て頂けたらと思います!


見逃した場合もティーバーで1週間は観る事ができるそうなのでご覧になって下さい!



余談ですが番組ディレクターの方が長田区出身とかで、長田区のどこですか?って聞いたら僕の赤ん坊の頃暮らしていた住所と同じ長田天神町で驚きました。


何かしら縁というものを感じました。