小さい頃から僕のばあちゃんを知っていてご近所付き合いをしてくれていた幼馴染も見舞いに来てくれたのだが、モニターを見ての通り酸素濃度が下がってよろしくない状況。
まさにこの撮影の1時間半後にばあちゃんは天に召される事となる。
心拍数が計測できなくなって「ピー!」と鳴るあれ・・・
何度聞いてもやりきれない。
転倒による骨折からの2度のコロナ感染。晩年は踏んだり蹴ったりの1年半だった。
デイサービスを使っていたらそのリスクはあって然りだとはいえ、あれがなければもう少し元気でいてくれたのかも知れない。
病院で95歳の誕生日を迎えていたばあちゃんは、肺炎が進行して肺水腫の状態だったのに、「ピー!」ってなってからも何度も復活。
僕に何か言いたげだった。
一度は心拍数が70まで復活した時は奇跡が起こった!って期待までしてしまった。
でもその頑張りがばあちゃんの最後の抵抗であり、僕が傍にいる事に「気付いているよ!来てくれてありがとう!」って言わんとしているような感じがして切なかった。
あのばあちゃんの最期の涙は、先逝く事への無念の涙なのか?それとも僕が最期を看取ってくれた事への感謝の涙だったのか?
今でもどっちだったのか気になって眠れない日がある。
この記事もなかなか書く勇気が湧かなくてずっとモヤモヤした気分だった。
彼女に対する感謝の想いとか思い出を何かしら書き記さないと、僕は僕で次の段階にスッキリと進めないと思っていたので、こうしてようやく書くに踏み切った次第である。
ばあちゃんは昭和4年に北海道の小樽に4姉妹の次女として生まれる。
弟もいたそうだが3歳の頃に交通事故で亡くなったそうだ。
昭和20年7月15日・・・当時16歳のばあちゃんも北海道空襲でB29の銃撃がかすめて危うく命を落とすところだったらしい。
その3年後に結ばれるじいちゃんはその数か月前、レイテ沖海戦で魚雷に沈められた駆逐艦から海へ飛び込み、10km以上の距離を泳いでフィリピンの無人島に辿り着き、そこで1年近くサバイバル生活を強いられていたそうだ。
じいちゃんは終戦後回収に来てくれた駆逐艦雪風で日本へ帰国したそうで、同じ船にはゲゲゲの鬼太郎の作者で知られる水木しげるさんも乗っていたとか。
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