数えてもう20年になるんですね。
あの震災が僕の人生にとって丁度中間地点になってしまいました。
19年の年月は永かったようであっと言う間でしたね。
よく考えたら僕が本格的に、自転車競技へのめり込み始めたのも震災前後からでした。
元々僕は子供の頃からオフロードが好きで、高校2年の時にバイト代で買ったMTBからは本格的にシングルトラック(バイク1台位しか通れないような険しい山道)を走るようになり・・・
暇があれば山や広い公園で、ウィリーやジャックナイフターンを練習していたものです。
100段くらいの階段を自転車から降りずに、ホッピングで上り切った頃には、トライアルの選手には遥かに及ばないけど、バイクをコントロールするセンスはかなり身についた実感がありました。
この頃はまだロードバイクに興味が無くて・・・
というより「舗装された道路を走るだけの自転車・・・つまり荒地は走れない!」っていう固定観念が、ロードバイクを物足りないものとして捉えていたんですね。
「MTBならどんな道でも走れるし、舗装路だってセッティング次第ではロードにも負けない!」
それが当時の僕の価値観でした。
危険な道をアホみたいなスピードで走り抜けるスリルも、当時の僕にはたまらなかったですね。
誰もがやらないような事・・・
とにかく危険なこと、そして常識的にも体力的にも人間離れしているもの、苦痛以外の何ものでもないこと・・・それらに挑む事。
それこそが価値ある事だって思っていました。
当時の僕には『前人未到』とか『日本人初』とかって言葉が、蜜のようなものだったのです。
高校生の頃、同級生とは良く自転車で釣りに行っていたんですが、MTBのトップチューブにロッド(釣竿)を固定して、リュックサックにタックルボックスとリールを入れて背負い・・・
兵庫区の自宅から白川峠を上って友人宅まで行き、そこでメンバー全員が合流してから西神中央を抜け、加古郡稲美町や小野、加古川方面までブラックバスを釣りに行っていたのですが、その時でさえ常に平均時速や最高時速を意識して、毎回往復100km前後の距離を通っていたんですね。
そうしていくうちに小学生の頃に初めて知った『ツール・ド・フランス』の事を思い出して、深く知りたいって思うようになったんですよ。
当時の僕の夢は「F-1レーサーになって、セナとプロストの引退後に新チャンピオンになるであろうミハエル・シューマッハをぶっちぎる事。」、「パリ・ダカールラリーに出場して日本人初のチャンピオンになる事。」、「ツール・ド・フランスに日本人として初めて出場して完走する事。」
F-1レーサーへの夢は・・・高校卒業後すぐに免許を取り、大学の自動車競技部でジムカーナやサンデーレースから始めたかったものの、親の仕送りなどが一切無い生活だったので、大学の受験費用や入学金を工面するだけでも大変で、結局浪人してホテルマンの仕事をし、大学に行く為の費用を貯める生活を始めるようになって、教習所どころではなくなった時点で諦めてしまい・・・
ツール・ド・フランスは96年に、現インターマックス代表である今中大介氏が近代ツールとしては初の日本人参加選手として、完走こそできなかったものの、3週間の行程の2週間まで走る健闘をみせ、僕の夢における初参加という肩書きは幻へと消える。
パリ・ダカールラリーも後に三菱パジェロの篠塚健次郎氏が、日本人として初めてのチャンピオンに輝き、僕がパリダカを目指す理由が無くなってしまう。
歳を重ねる毎に夢のいくつかは崩れていきましたが・・・
それでも震災直後に雑誌のサイクルスポーツにて呼びかけ、集まった自転車仲間と立ち上げたクラブチームで、本格的に自転車競技を始めた僕は、ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアなどのヨーロッパのロードレースを、知れば知るほどにどっぷりはまっていきました。
グレッグ・レモンのベルナール・イノーとの師弟対決や、ローラン・フィニヨンとの激闘。
ミゲール・インデュラインのツール・ド・フランス5連覇。
インデュラインが絶対王者なのかといえば、それは全くの間違いで、当時は誰が頂点に立ってもおかしくない程、自転車レース界はスター選手に溢れていた。
95年ジロを制したトニー・ロミンゲルの圧倒的な走りを観たら、誰だって震えが止まらなくなるだろう。
レースを観る者を飽きさせないヤン・スフォラーダや、マリアノ・ピッコリの放つアタックの応酬。
山岳で果敢に攻めるリシャール・ビランクに、急勾配の上り坂をロケットのように上るマルコ・パンターニ。
99年ジロでチェーンが外れるトラブルに見舞われ、ラストの山岳で先頭グループに逃げられたパンターニが、尋常じゃないスピードで全員をごぼう抜きにしたあの走りは、思い出すだけでも鳥肌が立つ。
イタリアの旧市街。石畳の道で行なわれた個人タイムトライアルにおいて、どんな強豪選手もトップスピード時速65km程度しか出せない中、エフゲニー・ベルツィンとマリオ・チッポリーニだけが時速73kmで走っていたというありえない事実。
非公式になったとはいえ、アワーレコードで1時間に56.375kmの距離を走破したクリス・ボードマンのスピードは、1kmあたりの平均タイムが1分03秒8という驚異的なペースである。
このオリンピック1000mタイムトライアルのメダリスト並みのスピードを、1時間も持続できる事がどれだけすごい事か解りますか?
ちなみにS級競輪選手のトップクラスでも、1kmを全力で1分05秒以上かかるって考えたら、簡単にそのレベルが想像できますよね?
そしてそんなボードマンでさえツール・ド・フランスでは中堅レベルの走りしかできなかった。
それだけ選手全体のレベルが高かった、80年代~90年代のロードレース。
現代の知識だけ立派で頭でっかちな『自称ローディー』は、偉そうに御託を並べる前に、偉大な先人たちの走りに本物を学べと言いたい。
そんなすごいレースばかり観てロードの世界に足を踏み入れた僕は、震災の傷跡残る神戸で当時、プロを目指して日々トレーニングと走りの研究をしていたのです。
そう・・・1994~2001年までの僕は苦学生ながらも世界を夢見て、限られた時間と予算の狭間で必死にもがいていました。
それが僕にとっての青春でしたね。
受験とバイト、震災に自転車、そして多くの挫折。
ホント華々しい青春でした(笑)
ちなみに今も自転車レースでいい走りをしたいって目標は捨てていませんし、車のレーサーとして成功したい夢も捨てていません。
実は小学生の頃から心に決めている事があります。
自分の死に方について・・・
アホな事を言うなと思われるかも知れませんが・・・
僕は人助けをして死ぬか、車か自転車で限界ギリギリの走りの果てに死ぬか。
とにかく完全燃焼しきって死ぬ事を本望だと思っています。
震災からの19年。
ずっと中途半端な自分が嫌いで堪らなかった。
世の中には尊敬すべき、目指すべき素晴らしい人がたくさんいます。
そんな人を目指し、更に上を目指し、際限なくどんどんレベルアップし、そして燃え尽きたい。
いい意味で燃え尽きてみたい。
そしてそんな自分の背中を見て育った若者が、更に上を目指して頑張る未来。
それが僕の理想の未来です。
日々無難に生きようとする自分が死ぬほど嫌いだ。
チャレンジすることをしないで何の人生か?必死に生きなくて生きている意味があるのか?
この1月17日が来るといつも考えさせられる。
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