2024年12月18日水曜日

ばあちゃんとの思い出① ~幼少編~

僕は昭和50年4月に海星病院で生まれました。


当時の自宅は長田区長田天神町で、玄関を出たら目の前が神鉄丸山駅の改札でした。


母親が育児放棄気味で、父親とじいちゃんが出勤していなくなったら、昼までには母親も外出します。

公務員だったじいちゃんが帰ってくるのは早くても17時半。

それまで僕はお昼ご飯も食べないまま自宅に監禁されている状態でした。

空腹で苦しい時間を毎日耐えていたので、2歳になる前からの記憶が断片的ではありますが残っています。



この写真を撮影した時は父親と父親の大学時代からの友人に加え、じいちゃんとばあちゃんがいた時のものです。



これは3歳になったかどうかくらいの頃、奈良ドリームランドかな?

それか白浜のアドベンチャーワールドかな?

撮影してくれているのがばあちゃんで、ポニーに乗る僕を支えてくれているのが大叔母。

この直後くらいに長田区から北区の花山へ引っ越します。



母親は失踪して帰って来なくなったので、ここでじいちゃんと父親と3人で暮らす事になります。

それでばあちゃんが毎日兵庫から花山まで通ってくれて、母親代わりに育ててくれていました。



これは4歳になる直前、3年保育で幼稚園に入園しました。



この中で僕と同じ3年保育で入園したのは友達の島くんだけ。


あとはみんな1歳年上の子と同じクラスで学ぶことになる。



兵庫区の御旅公園にて。


ここから徒歩3分のところに義祖父とばあちゃんの住むマンションがある。


僕はこの頃から3年間、毎日北区の花山東町から一人で神鉄に乗って新開地まで電車通い。


だからって訳じゃないけれど、幼稚園はともかく・・・最近の小学生や中学生が学校や習い事に行くために、わざわざ親に送迎されている姿を見ると「過保護だなぁ~。それじゃいつまで経っても独り立ちできないよ?」って思えてしまう。


当時の僕は、毎日電車や駅で慌ただしく通勤する大人や、新開地周辺でなわばりを張っているホームレス、子供が一人で通園している事にいちいち首を突っ込んでくるお節介な大人など、様々な人々の動きや考え方、周りへの気遣いができる人とできない人・・・

そんな風景を冷静に眺めながら通園しつつ、「自分は本当にこの世に生まれてきて良かったのだろうか?」、「将来誰かの為に、世の中の為に役に立てる大人になれるのだろうか?」などと、自分の将来に想いを馳せていた幼稚園児でした。



御旅公園には生田神社の分社があり、桜の名所だったりします。

よく幼稚園の友達とここでかくれんぼをしたり鬼ごっこをしたり・・・まあまあ罰当たりな子供だったと思います。


ばあちゃんにはとにかく、よくあちこちへ連れ回されました。

これは幼稚園に入園して間もない頃に箱根~富士五湖を旅した時の写真。

箱根湯本から登山鉄道に乗って、強羅からケーブルカーとロープウェイを乗り継いで芦ノ湖へ。



芦ノ湖からはバスだったのかな?

きっとバスに酔ったはずなので、そこの嫌な記憶はほとんど残っていない。

電車では酔わないけど、バスやタクシーはすぐに乗り物酔いするので苦手だった。



でこれは山中湖。

芦ノ湖といい、遊覧船は乗り物酔いしないので普通に楽しんだと思う。


これは土曜日だったのかな?幼稚園を昼に終え、その足で京都まで連れて来られた時の写真。

幼稚園手帳には毎日通園シールを貼ってもらえる。
コンプリートすれば1か月皆勤のキラキラシールを貼ってもらえるのが子供心に密かな楽しみでした。

それだけに旅行やばあちゃんの買い物や用事に付き合わされ、皆勤キラキラシールを貼ってもらえないのが嫌で、時々それを迷惑に感じていたり。(笑)


そうはいっても旅行や買い物に付き合わされた分はたっぷり遊ばせてもらった。

特に須磨水族館~須磨海岸散歩~須磨浦山上遊園のパターンと、阪急六甲~六甲ケーブル~ロープウェイ~カンツリーハウス(六甲フィールドアスレチック)で遊ぶ~ロープウェイ~有馬温泉散策(鼓滝公園~マス池~有馬ヘルスセンター)のパターンが、僕にとって一番楽しいルーティンだった。

この頃ガンダムのプラモデルで60分の1サイズのドムを、片足だけ父親と組み立てた後、ほとんど説明書も読まずに残りを一人で完成させ大人たちを驚かせて以来、幼稚園の帰りには兵庫区にあるサンケイモデルという模型屋さんでばあちゃんにガンプラを買ってもらって帰る事が平日のルーティンとなった。

その分日曜日は身体を動かして、六甲フィールドアスレチックの遊具を全て自分の力で成功させてコンプリートする事を目標に通っていた。

そんな僕のやる気を支える為にばあちゃんをメインに義祖父やじいちゃんが週替わりで僕に付き合ってくれた。
時々父親がその役を買ってくれたが・・・父親はスパルタ過ぎて、できれば彼とは出かけたくなかった。(笑)
父親と六甲山に登る時は六甲登山口駅(現・神鉄六甲駅)から沢を歩き、崖を登り、裏六甲ドライブウェイをカンカン照りの太陽の下、水分補給も根性で我慢しろと言われて歩き続けてからのカンツリーハウス。
ところどころで「ついて来なかったら置いていくぞ~!」って本気でダッシュ!
毎回殺されそうに思うくらい全力で父親の遊び相手に付き合わされている。

幼稚園児の頃から・・・いつもまあそんな感じでした。


御旅市場の豆腐屋さんの次男は1歳年上で当時の同級生。

時々ケンカもしたけど当時一番の仲良しで・・・


彼のお母さんには随分と可愛がって頂いていたので、こんな感じにうちのばあちゃんの引率で彼も一緒に六甲山に登って遊ぶ事なども。


日頃の鍛錬のお陰で運動会とかでは年上にも負けないくらいパワフルだったけど、よく女の子と間違えられるくらい華奢で小柄だったので、それが当時のコンプレックスでした。



そんな僕のコンプレックスの事など気にも留めず、ばあちゃんは時々面白半分で女の子用の服を買ってきては、僕にそれを着せて楽しんでいました。



これがその写真ですが僕の嫌そうな表情が判りますでしょうか?(笑)

「綺麗な色の髪をしたお嬢ちゃんですね!」って道行く人に声を掛けてもらう事がばあちゃんの楽しみだったみたいで・・・

「この服は嫌だ!着たくない!」

「せっかく買ったんだから着なさい!」

ほぼ強制でした。(苦笑)

また僕の事を他人から自分の子供だと思われる事にもうれしく思っていたようで、「これからは私の事をおばあちゃんではなくお母さんと呼びなさい!」と言われるようになって益々ばあちゃんの事を面倒くさい人だなぁ~と感じるようになっていました。

ばあちゃんの事は嫌いではなかったけれど、確実に好きではなかった当時。



僕は男に生まれたので誰よりも強くなりたいし、将来は世界を救うヒーローになるんだ!と、格闘技をしている2歳上の先輩に勝負を挑んでは、何度も何度も叩きのめされながらあきらめずに立ち向かって鍛えてもらいました。

ケンカのテクニックとかもその先輩に叩き込まれました。

家では父親の持っているブルース・リーのビデオを勝手に観てはジークンドーを独学で練習したり・・・。



あと演劇はいつも主役を任される事が多かったです。

これはセリフを覚えるのが早いだけではなく、場面によってキャラクターがどんな気持ちでしゃべっているのかも含めて台本全てのセリフを覚えて友達にアドバイスしているのを先生に見られてからそうなってしまいました。



でもその事を快く思わない一部の保護者などがいて、僕と友達との付き合いにまで亀裂が入るほどの嫌がらせを受ける事がたびたびあり、そういう時にいつも助けてくれたのが園長先生とばあちゃん、あと仲の良かった友達とそのお母さんなどでした。



こうやって演技をしている時も小声で次のセリフをしゃべる友達にセリフのタイミングを間違えないように確認をしています。



こんなカンペがアルバムに保管されていましたが、正直カンペを見ながらしゃべった覚えがありません。

ちゃんと自分の言葉で話したかったので半分くらいはアドリブで挨拶をしていたと記憶しています。

そういうところもばあちゃんにとっては鼻が高かったそうで、今思えば僕のせいで彼女の虚栄心を刺激してしまったのかも知れません。
「あなたは良い大学を卒業して、一流企業で出世するのよ!」
当時、世界を救うヒーローを夢見ていた少年に、そんな現実的な目標を持たせるな!(笑)


でもばあちゃんのすごいところは、いつも全力だった事。
僕に新しい何かを経験させよう!学ばせよう!って姿勢が尋常ではなかった。

当時の日本や世界は、意味の分からない我慢大会や大食い大会で盛り上がったかと思いきや、歴史的な発見とか冒険とか人類初の快挙とか・・・そんなニュースが頻繁に飛び交っていたような。

だからなのかは判らないけど、チャレンジ精神を持つ事に生き甲斐みたいなものを感じていた僕は、ある意味ばあちゃんの期待を背負う操り人形みたいな存在ではあったと思う。


南紀もよく遊びに連れて行ってもらいました。

アドベンチャーワールドだけではなく、串本海中公園や白浜温泉、勝浦温泉。

一度行っただけで、天王寺駅の乗り換えで特急くろしおが発着するホームを覚えていたりして、僕が迷わずそこまで案内するとばあちゃんが嬉しそうにするんですよ。

彼女の期待に応えようと幼稚園児なりに努力しました。

百貨店の入口など扉のあるところは先に扉でスタンバイ。

ばあちゃんが歩いてくるタイミングに合わせて扉係をする。

他にお年寄りや妊婦さんなどがいたら、勿論扉を開いて「お先にどうぞ!」ってやっていました。
この時に他人からお礼を言われたり感謝される事がとても気持ちよくて、誰かの為に頑張りたい!とか、誰かの喜ぶ顔を見るのが幸せ!って感じるようになったんだと思います。

これって当時、一日一善のCMの影響によるものも大きかったかな。
海外に出張に行くことが多い義祖父から「男はレディーファーストが常識、わしはこうしてばあちゃんからお酒を注いでもらったりしているけど、海外では男の人が女の人に注いであげるのが常識やから、日本の常識が必ずしも海外では通じないって事を大作も知っておくんやぞ。」と教わった事もばあちゃんの期待に沿えるように頑張ろうと考えるようになったきっかけ。

それで5歳になった頃にはばあちゃんの買い物に付き合う時も、新開地で待ち合わせではなく、難波や梅田で待ち合わせするようになった。

ばあちゃんは新開地まで歩くより、国鉄の兵庫駅の方が目と鼻の先だったので、少しでも先に行って買い物を楽しんでいて欲しいという僕の気遣いからだった。

梅田は阪急梅田駅のホーム内にある喫茶店で〇〇時とか、阪急百貨店の地下街に〇〇時頃に探しに行くとか、難波は御堂筋線の改札前かロケット広場で〇〇時に合流とか。

それに間に合うダイヤとかはばあちゃんが調べて教えてはくれるけど、あまりにも余裕を見過ぎたスケジュールで朝早くから動かないと無理なので・・・
さすがに自分のペースで行きたいっていうワガママも内心あったので、今思い返すと結構本音と建て前を使い分けていたなぁ~と、子供時代の自分に感心してしまう。

それに当時はまだまだ携帯電話のない時代なので遅刻したら心配させてしまうし、行くのが面倒で一度すっぽかした時など、電話がかかって来て烈火の如く怒鳴られた覚えもある。

ただし悪い事ばかりではなく、それに行けば帰りにキディランドで新作のガンプラを買ってもらえるかも知れない!

そんな期待もモチベーションにして、花山から一人で大阪の待ち合わせ場所まで行っていました。


当時の自分の手形と比べてみました。


これはばあちゃんと大叔母と3人で市ケ原へ川遊びに行った時の写真。

4歳の頃白良浜で溺れて以来、小学6年生になるまで水恐怖症でかなづちでしたが、沢で岩から岩に飛び移りながら歩くのは、アスレチック仕込みで得意技でした。

浮石などでバランスを崩しても絶対に転ばないで迷わず次の岩へジャンプ!

この頃のスキルが今になって岩ゴツゴツの岩稜帯登山で役に立っています。


これは6歳の時に初めて札幌雪まつりに行った時の写真。


この時は芽室の親戚宅と小樽にも遊びに行きました。


無事に3年間電車通いを続けて卒園出来ました。

この御旅公園で知り合った20~30歳くらいの女性だと思いますが、2度ほど監禁されたのですが、1度目はトイレに行っているうちに逃げ出し、2度目は外から鍵をかけられ逃げられなくされたので、ベランダから排水パイプを伝って脱出したり・・・

新開地の改札でじいちゃんの帰りを待っていたら、ワンカップ大関の飲み残しなど、ゴミをそのままにして立ち去ろうとしたホームレス3人組がいたので「ゴミを持ち帰ってゴミ箱に捨てろ!」って注意をしたところ、生意気だと3人がかりで殴る蹴るの暴行を受けて・・・走馬灯を見たくらいなので死を覚悟したと思うんです。そこに偶然通りかかった父親に助けられた事があったり・・・

そんな破天荒な幼稚園生活だった事を、ばあちゃんはどこまで知っていたんだろう?

2024年12月17日火曜日

2024年一番の大事件。

2024年 6月23日(日)仏滅

祖母  東 榮子  永眠。


小さい頃から僕のばあちゃんを知っていてご近所付き合いをしてくれていた幼馴染も見舞いに来てくれたのだが、モニターを見ての通り酸素濃度が下がってよろしくない状況。


まさにこの撮影の1時間半後にばあちゃんは天に召される事となる。


心拍数が計測できなくなって「ピー!」と鳴るあれ・・・


何度聞いてもやりきれない。


転倒による骨折からの2度のコロナ感染。晩年は踏んだり蹴ったりの1年半だった。


デイサービスを使っていたらそのリスクはあって然りだとはいえ、あれがなければもう少し元気でいてくれたのかも知れない。


病院で95歳の誕生日を迎えていたばあちゃんは、肺炎が進行して肺水腫の状態だったのに、「ピー!」ってなってからも何度も復活。


僕に何か言いたげだった。


一度は心拍数が70まで復活した時は奇跡が起こった!って期待までしてしまった。


でもその頑張りがばあちゃんの最後の抵抗であり、僕が傍にいる事に「気付いているよ!来てくれてありがとう!」って言わんとしているような感じがして切なかった。


あのばあちゃんの最期の涙は、先逝く事への無念の涙なのか?それとも僕が最期を看取ってくれた事への感謝の涙だったのか?


今でもどっちだったのか気になって眠れない日がある。


この記事もなかなか書く勇気が湧かなくてずっとモヤモヤした気分だった。


彼女に対する感謝の想いとか思い出を何かしら書き記さないと、僕は僕で次の段階にスッキリと進めないと思っていたので、こうしてようやく書くに踏み切った次第である。


ばあちゃんは昭和4年に北海道の小樽に4姉妹の次女として生まれる。


弟もいたそうだが3歳の頃に交通事故で亡くなったそうだ。


昭和20年7月15日・・・当時16歳のばあちゃんも北海道空襲でB29の銃撃がかすめて危うく命を落とすところだったらしい。 


その3年後に結ばれるじいちゃんはその数か月前、レイテ沖海戦で魚雷に沈められた駆逐艦から海へ飛び込み、10km以上の距離を泳いでフィリピンの無人島に辿り着き、そこで1年近くサバイバル生活を強いられていたそうだ。

じいちゃんは終戦後回収に来てくれた駆逐艦雪風で日本へ帰国したそうで、同じ船にはゲゲゲの鬼太郎の作者で知られる水木しげるさんも乗っていたとか。


ばあちゃんの家系は恐らく北前船の貿易商。

だからひいじいちゃんの菩提寺は福井県の永平寺。

実際、小樽には曹洞宗の寺院が点在している。

北海道はアイヌなどの先住民以外に屯田兵や、古くは蝦夷貿易をしていた北前船の商人などが多く移民して開拓された土地なので、意外にも福井県とは関係性が深い。


先に亡くなった大叔母たちの話によると、うちのばあちゃんが一番の自由人にして破天荒な性格だったとか。

孫ながら「そうやんなぁ~。わかるわぁ~。その頃からそんな性格やったんか~?」と思う事が多かった。

勉強がつまらないから!って小学校を抜け出し、嫌がる3女を引っ張って鉄道にタダ乗りしては札幌の闇市まで繰り出すような不良少女。(笑)

大叔母の「私まで道連れにして、後でこっぴどく怒られて・・・本当に滅茶苦茶な姉だったわ~。」って話には、同情しつつも笑ってしまった。


左がばあちゃんで、右が被害者の会第一号の大叔母さん(3女)


なんだかんだ若くして神戸に移住してきた祖母だが、最後まで地元愛は変わらなかった。


本当に北海道と長野県が大好きな人でした。


この写真は僕が大学生くらいの時かな?

義祖父と二人で大町温泉郷と葛(くず)温泉に行った際に高瀬ダムで撮影したものと思われる。

ばあちゃんの好みには偏りがあって、山が好きだから山が雄大で川の水が綺麗な景色を愛していた。


だから松本や岐阜県の飛騨高山なんかも大好きで、「そんなに行って飽きないのか?」って聞いてしまうほどよく通っていた。

何よりも上高地を心から愛していた。

「私が死んだら上高地へ行って梓川に散骨してね!」って懇願するほど。

現実問題、国定公園だから散骨したくてもできねぇよ!って文句を言ってやりたいところですが、そんなばあちゃんの為に遺影だけはと思い・・・


河童橋と奥穂高岳をバックに撮影した写真を遺影にして頂きました。


あとはばあちゃんの誕生石をあしらったこのペンダントシャトルに遺骨を詰めています。

今後これを身に着けて奥穂高や槍ヶ岳を登る事がばあちゃんへの供養だと考えています。

2024年12月11日水曜日

12月14日(土)15時~ テレビに出演します。

 



毎日放送で放送されている『明石家電視台』の新企画として『人生の選択』というコーナーを設ける事になったとかで、僕の『過去6回クマと遭遇した経験』を題材として採用させて下さい!とのお話を9月頃に頂きまして・・・。


自転車とは直接関わりは無いのですが・・・


初めて僕が生でクマと遭遇したのは1996~1998年の8~9月頃だったと記憶しています。

逆瀬川から六甲山頂を目指してロードバイクでチームトレーニングをしていた時。

西宮カントリー倶楽部の1番ホールのフェアウェイを悠々と歩いているクマがいるのを横目で見て、思わず3度見くらいしました。

ゴルフ客のおじさん方は怖がって全員カートにしがみつくように乗り、クマの動向を確認していました。

僕はチームの仲間と4~5人で走っていたのですが、三田から猪名川町を抜けて、北摂の山々を走った後、川西から戻って来て最後に東六甲から一軒茶屋まで上り、西六甲ドライブウェイ~有馬街道経由で兵庫区の自宅まで帰るコースを走行中でした。

当時は神戸近郊でクマに出会うなんて事は想像すらできていなかったので、目を疑いました。

実際に一緒に見た仲間たちとも「あれホンマにクマなん?何かの見間違いやんな?」「でもそうやとしたら、あれは何と説明する?ゴルファーのおっさん達はマジで怯えている感じやで?」「確かに・・・。」「俺ら夢でも見てんのかなぁ~」「いや、それは無いやろうけど冷静に考えよう?今俺らとは、金網一枚隔てた向こうにあんなでかいクマがいるんやで?あいつはどこから場内に入ったと思う?」「可能性としたらこの先の川が怪しい!」「そうなると自転車で走り去る俺らにもしも奴の狩猟本能が刺激された場合、早く逃げないとこの距離は十分な射程距離やぞ!」「できるだけ視界に入らないように急げ!」

そう言い合って必死で逃げた記憶。

甲寿橋交差点から苦楽園方面に逃げよう!って意見もあったけど、それだとクマとの距離が稼げないし、万が一住宅街まで追って来られたら住民の方々に迷惑が掛かって申し訳ない!

こういう時は敢えて激坂を上って逃げた方が、クマもバテて諦めるに違いない!

それで予定通り東六甲を必死で上った。

ちゃんと区間タイムを計測していなかったけど、甲寿橋から一軒茶屋までのタイムは余裕で30分を切っていたと思う。

盤滝トンネルと東六甲の分岐点まで時速40kmで必死に駆け上り、何度も後ろを振り向いて、モンスターに追われている絶体絶命の気持ちで逃げたのだから。


家に帰って同じマンションに住んでいた祖母にその話を報告しに行ったら、「え~っ、そんな~!宝塚にクマが出たなんて聞いた事もないよ~。」と言われたが、ちょうどそのタイミングでテレビのニュースでその話題が報道されて、「ほら!これよ!これ!」ってなった。


次は2000年8月末。

乗鞍のヒルクライムに出場する為に長野県松本市の乗鞍高原に来ていた。

前夜の土曜日だったが、宿泊していた美鈴荘から湯けむり館まで、外湯巡りしよう!って、後輩(塾の元教え子)と二人でメインの車道ではなく、街灯もない真っ暗けの林道を月明りを頼りに歩いて向かっている時に出会ったのが2度目。

何か暗闇の向こうから気配を感じるなぁ~とは思いつつ歩いていたら、「う~っ!」って重低音の唸り声。

思わず後輩と「この唸り声って犬だとしたら相当でかい番犬やと思うねんけど・・・どこに犬小屋がある?そもそも民家の灯かりすらないねんけど?お前見えるか?」「僕より先生の方が夜間視力強いでしょ?」「そうやねんけど見当たらんのよ。それよりこの獣臭ヤバくないか?」

そう言いながら林道を迷わず歩いていたら、ただでさえ暗闇だったのに、ひと際暗くなって月明りすら感じなくなった。

本能的にヤバいと思ったので後輩の腕をつかんで「ストップ!そのまま前を向いたまま!口を開くな!鼻で静かに呼吸しろ!」と引き留める。

ゆっくり目の前の風景を見上げてみた。空には星が光っていて、森の木々のシルエットはハッキリ見えている。

なぜそれなのに暗く感じたのか?

それ以前に鼻を突くような獣臭が至近距離だと言っている。

さっきよりも怯えたような声だが低く唸り声が目の前からしてきた。

木々のシルエットからゆっくり視線を下げてみた。

明らかに耳の形といい、後ろ足で立ち上がっているそのシルエットはクマだった。

恐らくあと一歩踏み込んでいたら、我々は一撃のもとに頭を攻撃されて致命傷を受けていただろう。

「おい、既に目が合っているからそのまま目を逸らさず、慌てないようにゆっくり後ずさりするぞ。俺から離れるなよ。」って、後輩の腕を引っ張りながら後退。

動物は人間がビビったり焦ったりしていたらすぐにそれを感知する。

クマに対しては「寛いでいるところを邪魔して悪かったな!」って、むしろ謙虚な気持ちで冷静に呼吸を整えながら後退することで恐怖感は緩和できました。

幸いクマも風下から迷う事無く接近してきた我々に戸惑っていたみたいでジッとしたまま動かなかった。ざっと50m以上は距離を取れただろうか?

ちょうど右後ろに建物があってその向こうをメインの車道が走っているのが確認できた。

この距離ならクマに追いつかれるよりも先に車道へ逃げ切る事ができる!

そう確信したところで「おい、全力で走るから遅れるなよ!」そう言って車道まで猛ダッシュ!


宿に帰ってみんなに話をしたけど誰も立ち上がって190~200センチもあるようなツキノワグマなんている訳ないやろ!って信じてくれなかった。

一瞬ヒグマか?って思うくらいでかかったのにだ!

後輩さえも暗くてハッキリ大きさが判らなかったし、本当にクマがいたのか?そんな経験自体が初めてだからまだ信じられないという心境だと。

ただ唸り声から推測してかなり大きい何かがいた事と、獣臭かったことは間違いないと・・・

いやいや、九死に一生を得ておきながらそんなものなのかよ?(笑)


一般的にクマの大きさは体長で表す事が多い。

体長150センチはかなり大きい方のツキノワグマだが、体長=身長と解釈している人の多い事。


体長とは四つん這いになった時の鼻先からお尻までの長さである。

二本足で立ち上がった時は概ねその体長に後ろ足の長さをプラスしないとならないって事を誰も解っていないのだ。


ツキノワグマの中には時々体長160センチを超える怪物がいる。


あの時僕が見上げて確認したシルエットはかなりの大きさだった。


それ以降しばらくはそんな経験から離れていましたが、2016年以降本格的に北アルプスを中心に登山活動をするようになって、またクマと遭遇する機会が増えてしまった。


乗鞍の時はセオリー通りの逃げ方を実践して成功したけど、登山で出会うようになってからはセオリー通りの事は一切していない。


専門家に言わせたら僕の行為はクレイジーだと言われるかも知れない。

まずクマ鈴は持っていても使わない!鳴らさない!

できるだけ夜間もヘッドランプを多用しない。

ラジオすら鳴らさない。

もしも風下にクマがいたら10km離れていても人の臭いを嗅ぎ分けてしまう。

ヘッドランプで位置もバレバレ!

人を襲い慣れている個体だったらどうする?

だから僕は使わない。


いざという時はやられる前にやるくらいの気持ちではある。

その覚悟で単独登山をしている。

そんな僕がどうやって何度もクマと遭遇して、これまで無事でいられたのか?

それがクイズの問題になっているんじゃないかな?

2022年9月末。

スタッフの美里と一緒に奥穂高岳に登ったその帰り、岳沢カールから上高地までの林道でもクマに遭遇したのだが、疲れ切っていた美里は僕のとっさの行動にビックリしてパニックになり、クマに驚くどころではなく、逃げ去るクマにすら気付いていなかった。


その話を編集で変なオチをつけられている可能性もあるけれど、楽しみにしていたので是非皆さんにも観て頂けたらと思います!


見逃した場合もティーバーで1週間は観る事ができるそうなのでご覧になって下さい!



余談ですが番組ディレクターの方が長田区出身とかで、長田区のどこですか?って聞いたら僕の赤ん坊の頃暮らしていた住所と同じ長田天神町で驚きました。


何かしら縁というものを感じました。


2024年10月22日火曜日

萎えるなぁ~。

 正直言うと夏休み前から「こんな店、もう閉めちまおうか!」そう思う事が連続していた。


6月23日に祖母が亡くなって余計に、辛いと思う事が増えた気がする。


昔みたいに学校帰りの小学生が多く寄り道するようになったのは良かった。


保育園、幼稚園の頃から園のお散歩で店の前を通る度に、「自転車屋さ~ん!」って声を掛けてくれて手を振ってくれていた子供たちのうち何人かが、寄り道するようになったのがきっかけだったかな。


しかしうちは自転車屋なのに、子供たちの間では「ここは子ども110番であり(アトラクション)遊び場」っていう認識の子が多いらしく、中には学校が終わってから遊びに来たと思ったら、その子の自転車がいつの間にか新車に変わっていて、明らかに某サイクルベースの自転車だったりする事もある。


いつも店内で5~10人くらいの子供たちがキャーキャー騒いで走り回ったり、お菓子を食べ散らかして、食べかすは転がっているわ、店内のゴミ箱がお菓子のゴミでパンパンになっているわで、店内がにぎやかになっている事以外に何のメリットもない。


挙句の果てに遊び相手になれだの、鬼ごっこに付き合えだのという始末。


こっちは店の家賃も払わないとならないし、従業員の給料も払わないとならない。


売上がないと店の存続どころか自分の生活すらままならないし、祖母の介護費用も支払えない訳だ。


そんな大人の都合なんて関係ないのかも知れないけれど、世の中の仕組みについてあまりにも無知過ぎやしないか?


今どきの保護者は「お店に迷惑をかけるな!」としか教えない。


それですら教育している家庭はまだマシな方だと言える。


当店としては別に子供たちが遊びに来たり寄り道するのは一向に構わない。


僕も自分の居場所が無くて辛かった子供時代を経験しているので、ここが心の拠り所になるんだったらそれでいいと思っている。


だから仕事の合間にだっこしろだのおんぶしろだのと言われても、別に苦ではない。


喜んでくれるなら大抵の事は相手になってあげよう。


しかし空気は読んで欲しい!


忙しい時は相手できないし、自転車を買いに来てくれているお客様と交渉している時に「ねえねえちょっと聞いて~!」はさすがにない。


ある男の子は展示しているビクシズのロードバイク(組み立て当時で130万円以上)を見て「何でこんなに高いん?1円やったら俺が買ってやるのに。」というもので、「それじゃ自転車の価値は評価されていないし、そもそもそんな売上では商売は成り立たないでしょ?」って返してあげたら、「うわっ!商売やって!汚ねぇ世界だな大人って奴はよ~。」と大声で吐き捨てながら帰って行った。


正直・・・人としてのモラルを疑う。


子供だからと言って決して許されるレベルの話ではない。


じゃあ言わせてもらうが、その汚ねぇ商売のお陰でてめぇの親も給料をもらっている訳で、そのお陰でてめぇも平々凡々と生活できて学校に通わせてもらってやがるんだろ?


そう親の前で、何なら親ごと説教してやりたいと思った。


ある時などHAT神戸特有の強風で傘が壊れたと言って、女の子のグループが店内に入ってきた。


その折れ曲がった傘を直して欲しいというのだ。


本来なら料金を頂きたいくらい、ちゃんと使えるように直してあげたのに、帰って親に報告とかする訳でもなく、それ以来僕の事を『バケモノ』と呼ぶようになった。


曲がった金属をいとも簡単に真っすぐに直した事を褒めてくれての事だとは思うのだが、表現の仕方がよろしくない。


他のお友達までもが意味も解らずに僕を『バケモノ』と呼ぶようになった。


店に来る度に担いだりお姫様抱っこをしてくるくる回って欲しいとせがんでくる女の子が何人かいて、1~2回程度のおねだりだったら僕も気にしないし、その分お客様から預かった仕事を急いでやればいい!って考えではいるんだけど、エスカレートして20回も30回もせがんでくる子が数名。


中には近々自転車を購入予定だって子もいたので、だからって訳じゃないけれど・・・怒るに怒れないし断り続ける事もできず。


その代わりちゃんとその子の気に入った自転車を探してあげて、キッチリ組み立ててあげよう。


そう思うようにしていました。


スタッフからは「店長は甘すぎ!あんなの無視した方がいいですよ!」って言われながらも、美里やなっちゃんも然り、アキラ君のようにうちの店に子供の頃から通って成長していった人物もいる訳で、まあそうやって子供たちが成長していく過程を見守ったり、指導してあげるのは嫌いじゃないんだよね~って言っていたんですよ。


そしたらその毎日って訳じゃないけど毎回30回くらい抱っこして回して~って来る子が、夏休み前に自転車を買い替えたらしいんですよ。


某サイクルベースで。


その翌日にその子が当店に来て、「店内に置いていた小さな可愛い招き猫が無くなっているのに気付いてる?」って店に来て言ったんですよ。


そんな事気付きもしなかったのでそれはそれで驚いたのですが、それ以上にその子が自転車を他店で買い替えた噂を知っていたので、どう接していいのか判らず困惑していたら、「あっ!私新しい自転車買ってんで!乗って来て見せたろか?」って言われました。


小学2年生です。


そのくらいの分別があってもいい年齢です。


これまで色んな事があっても我慢し続けていたのは、誰かに喜んでもらいたいから。


僕は親にも恵まれず、極端な環境で子供時代を過ごしてきたので、「将来は誰かの為に頑張り、誰かの笑顔の為に良い仕事をする。正直者が馬鹿を見るのではなく、頑張った人が報われる。それが当たり前の会社!当たり前の時代を作るんだ!」そう誓ったのは中学2年生。

14歳の時でした。


自分の過去や色々な記憶が脳裏を駆け巡りました。


「ゴメン、もう君とは二度と話したくない。もう店に来ないでくれ。」


思わずそう言い返してしまいました。


同じタイミングで店内で「もうしないで!」って行為を何度注意しても辞めずにしつこくしてきた別の子をちょっと本気で怒りました。


その子は他人から特別扱いをされる事に優越感を感じていた子なので、当然それ以来当店を避けるようになりました。


根が良い子だったのでとても残念でしたが、自分のやり過ぎたいたずらと向き合おうとしない子を、反省もさせずにまた呼び止めるのは違うなと思うのでそれ以来放置。


また更に別で、「店長~!鬼ごっこしようよ!」って誘ってきた女の子に至っては、「今は修理が多くて忙しいから無理!」って断ったんだけど・・・。


「えっ?そんなんいいやん!じゃあ店長が鬼で!1分数えたら開始な!」って、勝手に吐き捨てて走って行った。


他の友達も困惑しつつ走って行った。


いや、無理って言ってるやん?僕が鬼ごっこに付き合ったら付き合った時間の人件費をちゃんと払ってくれるんか?


そう思いながら作業をしていたら、まもなくキレながら戻って来て「何なん!おもろないからもう帰るわ!」って肩をいからせながら帰って行った。


あの・・・怒りたいのはこっちの方なんだけど?


そんな事が立て続いて7月下旬に心が壊れそうになっていました。


2学期に入ってまた別の女の子が他店で自転車を購入しました。


元々当店に並べていたコーダーブルームが欲しかったらしい。


でも成長期だからそろそろ大人用のサイズにした方がいいよ!


そうアドバイスしたのが悪かったのかなぁ?


どんな自転車が欲しいのか、また決まったら相談してね!と伝えていた。


それから数日後「私違うお店で自転車を買うかも知れない。」と言われ、なぜ?って聞いてみた。


「お母さんと色々調べてみてこれ良いんじゃない?っていう自転車があって、もしも店長のところで取り扱いができないんだったら仕方がないね。って話になったから。」と言われました。


「じゃあそれがどんな自転車かまた教えてくれる?」そう返しました。


そこからまた1週間以上が経ちました。


何も言ってこないままだったので、お母さんが兼用できる自転車がいいねと言っていた事を考慮して参考になる自転車を発注していたのが、ちょうど届いて組み直していたところでした。


「あのね店長、私が他のお店で自転車を買ったって言っても怒らへんやんよね?」と学校帰りに立ち寄るなり言ってきた。


またこのパターンかよ!って思ったら、頭を打ち付けられたような気分になりました。


何かもう・・・その時はどう話していいのか判らなくなって、とにかくショックであることは伝えました。


そこから向こうも気まずくなったらしくて、学校帰りも店の前は通るけどさっと逃げるように立ち去り、いつも一緒に帰るお友達が代わりに挨拶して帰っていくような現状。


自転車は洋服と違って1度買ったら何年も買い替えないでしょ?


何着も買うみたいに何台も買わないでしょ?


それだけに商品1品1品にかける情熱って半端ないのよ。


大切にしてくれるお客様に出会って欲しい!


少なくとも個人経営の自転車屋は、毎日そんな思いで新しい自転車を組み立てているんだよ。


まあ小学生の子供たちにそこまで理解しろ!なんて言えないので仕方が無いのですが。


それ以来悶々としている訳です。


根は良い子なのはよく知っているし、ご両親とも面識があって・・・それもちゃんとしたご家庭なのも知っているので、余計にやるせないなぁ~って。


そして今日。


中学生くらいの男の子が「すみません!ペダルを漕いだらカラカラ音がするんですけど?」ってやってきました。


自転車を見たらチェーンカバーが内側に押されてチェーンと干渉しているだけでした。


そんなのすぐに引っ張れば直る話なんだけど、手は汚れるんですよね?


その作業をしただけで手を洗わないと、次の作業に戻れない訳です。


でもまあこれくらいタダでしてあげようかな~って思っていたら、そもそも最初から支払う意思は無かったかのように立ち去ろうとして、そこで思い出したように何か言おうとした。


そこで「あっ!すみません!修理代はいくらですか?」


そう言ってくれたならいくらか僕の心は救われたと思う。


しかし出てきた言葉は・・・


「あっ!ついでに空気を入れてもらってもいいですか?」


えっ?何?そっちの話?ついでにってどういう気持ちで言ってんの?


大魔神の如く形相を変えて蹴散らしてやろうかと思ったけど、笑顔で応対。


でも心の中では「お前の顔も自転車も覚えたからな!もう二度と助けてやらん!」


そう思った。


次にやはり中学生かな?美里やなっちゃんの友達の弟君が自転車を押しながら店内に入ってきた。


基本入口を塞がれたくないので、いきなり自転車を店内に入れてもらいたくないのである。


「どうしたの?」って聞いたら「ボールに空気を入れて下さい。」って。


尚更その自転車が邪魔なので「悪いけど自転車は外に出してもらえるかな?」って撤去させる。


実際にその自転車で入口を塞がれたお陰で、店内に入れなくて困っているお客様がいた。


更にそのボールはボロボロで前から買い替えた方がいいよ!って助言していたボール。


とりあえず空気は入れたけど、どこかからシューって空気が抜けている。


小さいけどゴムが剝き出しになっている辺りに擦り傷の穴が開いているみたいだ。


その子は怪訝そうな顔をしてボールに耳を当てた。


そして何も言わずに立ち去って行った。


いやいや、礼ぐらい言って帰れよ!


怪訝そうな顔をしたいのはこっちの方や!


エジプト人のハーフか何か知らんけど、国の文化の違いとかそういう問題ではないので、彼も出禁決定で。


そして最後に二人組の小学生の女の子が店に来て、電動アシスト自転車購入の相談をしているお客様の会話を遮って留美さんに声を掛ける。


慌てて僕が「どうしたの?お客様とお話しているからこっちで聞くよ?」って声を掛ける。


すると指を怪我したからバンドエイド(絆創膏)を貼って欲しいとの事。


すぐに消毒液で傷の周りを拭いてあげて絆創膏を貼ろうとしたら、玄関で待っているハーフの女の子が「何してるん!早くして!まだなん?」って大声で怒鳴るわけ。


その声で留美さんとお客様の会話がかき消されて空気が悪くなる。


間もなくハーフの女の子は店内に入って来るなり、「バンドエイドは無事に貼ってもらえたの?」って確認した直後、僕に向かって「こんなことでそんなに時間かかるもんなん?まあ別にええけど。」って吐き捨てて帰ったのである。


こんなこと・・・って何?


うちは自転車屋やで?


消毒と絆創膏を貼るのに3分もかかってないけど?


当然お金も取っていないし?


何で好意でやってあげている事にそんなイチャモンをつけられなきゃいけないんだ?


何かもう、どこにぶつけていいのかも判らないようなやるせなさや切なさが・・・。


この気持ち・・・自転車屋じゃない貴方にも解りますか?


特に親世代の方々にはこんな事実もあるって事を知ってもらいたいものです。

2024年10月11日金曜日

10月14日(祝)久々のポタリングを開催します

3連休最終日にポタリングを開催します。


朝8時~10時の予定。


店前集合でお願いします。


車種は問いませんが未成年者の参加については保護者同伴又は保護者同意書のご用意をお願い致します。


モーニングの予算として1000円程度はご持参下さいませ!

2024年8月8日木曜日

塩とミネラルの話

ここでは自転車に乗る人や、マラソン、登山などをする人向けに、やや特化した評価として塩とミネラルについて書かせて頂きたい。

勿論僕は料理評論家でもないし、栄養学の権威でも無い事だけは理解の上で、素人の雑学に付き合って下さい。

まず僕は40代の中年オヤジになるまで塩についてそこまで知ろうとはしていなかった。

いつもなら自分の納得のいくまで調べつくして使う性格なのに、塩についてはそこまで深く考えた事がなかったのである。

1996年8月末。

21歳の時、初めてエントリーした乗鞍のヒルクライム。

チームメイトの誘いでチャンピオンクラスで出場したものの、ウォーミングアップをダラダラしていたらスタート会場で早い者順に並ばされており、結果後方からのスタートとなりました。

おかげで序盤は思うようなペースで走らせてもらえず、道は決して狭い訳ではないけど、その道を横切るように大きな排水溝が点在し、しかも溝の蓋をしている範囲が狭く、道幅の半分もカバーしていない状況。

集団の混雑がたまらず車列から飛び出した途端、溝にはまって落車する選手も何人かいた。

僕はそこをホッピングという技を駆使して、走りながら溝を飛び越えどんどん遠くに消えていく先頭グループを追いかける。

今思えば余計なエネルギーを使ってまで追う意味があったのかは不明。

そもそもこの日、僕はドリンクボトルを持たずに出走している。

たかだか22km程度のヒルクライムに水分補給なんて必要ない!とにかく余計なバラストは載せずに軽量化!

昭和生まれの僕には科学的根拠よりも根性論を信じる愚かさがあった。

何事も「何とかなる」のではなく、根性で「何とかする!」という思考回路。

そして大抵の場合僕の身体は期待に応えてくれて、全ての困難を根性で何とか貫き通してこれた事も、当時の僕の根性論を正当化させてしまったのかも知れない。

第一チェックポイント通過時、猛追するためにペースアップしていた僕は、ボランティアスタッフが配布してくれるアクエリアスも水も受け取らずに林道へ入る。

8月末とはいえ、山頂付近では万年雪でスキーを楽しむ人もいる乗鞍岳は標高3026mの山です。

標高1400mの乗鞍高原をスタートし、日本の車道の最高地点である標高2800mまで走ります。(ただしこの数値はどういう意図かは不明ですが若干盛った数値らしく、現在は訂正されていますが、実際には標高1460mから2716mまで上るレースです。)

晴れていても山頂付近は気温が10~14度程度。(雨が降って0度だった時もある。)

しかし日陰がほとんどないので気温はともかく、ずっと日光を受けながら走る為、暑い事は暑いのです。

最大傾斜15%の激坂区間までは順調に順位を上げながら走っていましたが、そこから間もなく標高2100mを越えた辺りで両脚のふくらはぎが痙攣し失速。

この頃の僕は、それまでのパワーに任せた踏み足重視のペダリングを修正する為に、引き足を意識したペダリングを習得中でした。

片足だけに負荷をかけるのではなく、両足で均等に負荷を分散した方が効率よく体力を温存でき、筋肉の疲労蓄積をセーブする事ができるのです。

そうはいってもこの当時はまだ、ペダリングのスキルを物にできていない頃でした。

それも腓腹筋の疲労要因だと思っていますが、水分保持ができなくて体内のミネラルが汗と一緒に流れてしまった事も痙攣の原因だったみたいです。

たまたま同じくらいのペースで上っていた方に、当時の日本の山岳王である村山利男さんのチームメイトにお医者さんをされている人がいて、その方から「単純にカリウム不足だよ。」と言われ、ドリンクボトルも装備せずに上っている事自体も「ヒルクライムを舐めている。」と窘められました。

恥を忍んで「カリウム不足は何で予防すればいいんですか?」と走りながら質問したら、「スタート前に岩塩でも舐めるといいよ。」と教えて頂きました。

それ以来トレーニングの時もレースの時もスタート前にはアルペンザルツを舐めて、いざって時の為に小袋にも少量のアルペンザルツを入れて携帯するようにしていました。

アルペンザルツの名誉の為にも言いますが、料理にも使えるし好きな岩塩です。

でも当時の僕は塩にそこまで探求心が湧かなくて大きな過ちを犯していたのです。

塩のミネラル含有量をもっと調べて網羅すべきだったのです!

当時もっとミネラルの詳細を研究して、水分を保持して走る術を学んでいたなら、逃げ切って勝てたレースも何試合かありました。

当時の自分の未熟な探求心と無駄で無謀な根性論に反省しかありません。(笑)


この塩は以前、内蔵機能を回復させつつダイエットの為にファスティングをしていた頃、ファスティング仲間から薦められて購入したアムウェイの塩。

岩塩ではなく海塩です。


裏の成分表を見たらスペックは一目瞭然。

食塩相当量という表記の数値は100g中の純粋な塩分です。

90gだと世間一般の食塩よりも減塩効果は高いです。

皆さんご存じのJTの食卓塩などは、ここの数値が99gなので、如何にミネラル含有量が少ないか?という話になります。

着目して頂きたいのはカリウムの含有量!

アムウェイの塩は100g中に477mgもカリウムが含まれています。

これはかなり優秀ですね。

次にネットで調べた成分比較表を見て下さい。


正直この比較表が制作された時期は不明なので、その後商品によっては多少の成分量が変わっているという事を補足させてもらいます。

アルペンザルツのミネラル含有量・・・オイ!なんてこった!(笑)

カルシウムの含有量だけ妙に多いが食卓塩と大差ない塩分98.5%だと?

カリウムの含有量もJTの食卓塩より少ない!?


某スーパーで見かけた淡路島の藻塩。

ミネラル含有量の最大値だけを見たら、カリウム9000mg?

最低でも2700mgも含まれているなら、十分すごいというのは判るけど、僕はこういうアバウトな表記をされている商品は疑って買えない性格。


次に驚いたのがこの『やさしお』!

塩分50%カットって・・・じゃあ残りの50%は何でできているの?


 正直この成分表だけでは理解できないけど、カリウムの含有量が異常なのは判った!(笑)

カリウムで減塩した分の塩の風味をカバーしているとか。

塩分50%を信じて使っている知人に聞いたら「これすごくいいよ!」って言っていたんだけど、そのあと違う話題から健康診断の話になって、「そういえば医師からカリウムの数値が高いと言われた。」って言うもので、「それ、やさしおの使い過ぎやろ!」って笑い話になってしまった。

レースで使うのだったら、痙攣防止のドーピングに有りかも知れないと密かに考えている。


結局色々調べて、沖縄の『ぬちまーす』か『雪塩』のどちらにしようか迷ったのですが、今はこの『ぬちまーす』を買って使っています。

250g入りが2500~3000円くらいする高級品ですが、ミネラルのバランスが一番高次元で塩分の含有量も75.5%と十分身体に優しい。


マグネシウムの含有量がダントツで高いのですが、カリウムも970mgとかなり優秀。

何よりこの『ぬちまーす』はどんな料理にも合う!

粉末状の塩なのでどんな出汁にもすぐに馴染むし、一番の驚きはお米を1.5合炊く前に、小さじ半分程度の『ぬちまーす』をふりかけて炊くと、驚くほどつやつやのご飯に炊き上がり、甘みも引き出されて「こんなに美味しくなって良いのか?」って思えるくらいご飯がたまらなく美味い!!


よくお米を炊くのに水は何を使うか?って話題になると思うけど、基本的にお米は硬水よりも軟水が美味しく炊けると言われています。

硬水はミネラルの含有量が多い水って事なので、米がミネラルにガードされて水分を吸いにくくなる為、パサパサのご飯になりやすいから不向きって話。

ところがそのセオリーに反するような事をしているのに、『ぬちまーす』を入れて炊くとふっくらつやつやで甘みも旨味も増すという不思議。


何はともあれ、自転車で走る時にもこれを舐めてから走れば痙攣癖のある僕でも脚を攣る事無く走れる可能性大!

そしてここにきて話がつながるのがこれです!


株式会社グリーンハート・インターナショナルさんが作っている『アライバル』です。

カリウム(ミネラル)含有量の高い塩と併用すると更に効果が増すかも。

『アライバル』はドリンクや水に少量を混ぜて飲むだけで、保水力を高め体内の水分とミネラルを汗で抜けにくくし、活動中の水分補給量も少なくできます。


つまりサイクリング中にボトルの水がなくなって「あ~っ!どうしよう!」となって困る時間を無くしたり減らしたりできるという事。


例えば登山の場合、上高地をスタートして槍ヶ岳まで歩くとします。

距離はざっと21~22kmで標高差は1600m強。

ザックの中に2リッターのハイドレーションを仕込んで歩きながら給水できるようにするのですが、6時間で登ろうと思ったらできるだけ荷物を軽くしたい訳で、1.5リットルだけ水を入れて歩いたのですが、途中自販機も売り切れ続きで、水はどんどん消費されました。

槍ヶ岳がようやく姿を現すグリーンバンドに着いた時には水は空っぽ。

ラストの1時間は喉の渇きと空腹で忍耐の登山でした。

もしもあの時ハイドレーションの水に『アライバル』を入れていたら給水回数が少なくて済んだはずなので、最後まで水を飲み切る事無く登り切れたと思うのです。(そうはいっても6時間歩き続けるなら、ハイドレーションの水は本来2リットルが望ましい。)

しかも体内の水分やミネラルが抜けると高山病にもなりやすく、一度は新穂高温泉から奥穂高岳に向けて標高差2000mを一気登りした際に、軽い肺水腫になった経験があります。

肺水腫になれば、呼吸困難で死に至る可能性が高くなります。

そういった視点から高山病予防の効果も期待できますし、トレイルランナーなど、荷物を軽くして山を走られる方には心強い味方になってくれそうです。


実際に日常の生活でも『アライバル』有りの時と無しの時では、1日の水分摂取量が少なくとも1リットルは変わるという事を実際に体験してみました。

自転車のロングライドやヒルクライム、登山やマラソンに効果的なのは間違いないと思われます。

今度は実験としてミネラルたっぷりの塩と併用して走り、その効果を試してみたいものだと考えています。



あと面白いのは、例えばアミノサプリ+に『アライバル』を2滴入れて飲みました。

実はアミノサプリ+って化学甘味料のアセスルファムKとかスクラロース、ステビアの3種が入っているので、正直美味しくはないんです。(少なくとも僕は苦手にしている味)

ところが『アライバル』を入れた途端に味が変わって、すごく飲みやすくなりました。

化学甘味料独特の味が苦手な人も、これなら美味しく飲めます。

その辺の使い方は『ぬちまーす』みたいで面白いと感じたところです。

先日友人に若狭の瓜割の水(めちゃくちゃ美味しくて整腸効果のある名水)に『アライバル』を混ぜたものを差し上げたら、やはり「すごく美味しい!」って喜んでくれました。


興味のある方には今ならお試しで試飲して頂く事が可能です。

お気軽に声を掛けて下さい!